「あらゆる人間の行為」とは書いておりません。そこまで人は意図的には生きられないでしょう。わたしは書くという行為に限定した筈ですが。
わたしは戦後世代で、根拠を問う世代に生れました。その残滓がさまざまな結果をもたらすようです。玲はる名さん宛の書き込みに記したようにネットの影響には畏るべきものがあります。
仰有っての通り、文学にと云うよりも人の精神に深化はあっても、進歩や進化などないと思います。思いながらも、西洋の硬直化した弁証法的ものの考え方にはうんざりしています。あなたが示唆なさっている「期待と落胆の相克はどうもアミニズムの支配的な世界では生まれようもない背反だと思われる」は大旨正しいご意見だと思います。ただ、今の日本がアミニズムの支配する世界だとは思っておりません。「くっきりとした何かの傷」とあなたは表現なさっていますが、誤解を懼れずに申しますと、世の中を正邪に色分けするキリスト教文化の謂いではなかろうかと思います。
わたしにプリズムを求められてもそれは不可能です。わたしに与えられた材料は作品だけです。作品のなかに秘められた痕跡ないしは傷跡のようなものからイマジネーション(すなわちプリズム)を働かせるしかないのです。こう申しては失礼ですが、その傷跡が今のわたしには見えて来ないのです。わたしの虹彩の能力が失われているのかもしれません。いずれにせよ、「粗い」とのお言葉は甘んじてお受け致します。
続同人誌と違って、続々同人誌は随分と風通しがよくなっているように見受けられます。三島由紀夫やユイスマンスの小説にあっては、文中にいきなり続々同人誌に書かれたような内容が紛れ込んでいます。あれもひとつの方法論かと思います。契機は衝動で結構、ただ、書いている内に衝動で済まないものが育まれてくると思うのですが。