レイアウトが崩れる方・右メニューが表示されない方: >>シンプル・レイアウトへ

« 玲はる名さんへ | メイン | 菊坂さんへ2 »

続々同人誌   菊坂澄江   

 

あらゆる人間の行為に根拠が必要であるのかどうかという問いが立てられると思います。これこそどの行為に根拠が必要で、どの行為に根拠が必要ではないのかということになってしまいます。それは異常と正常の線引きがあいまいだとおっしゃるのと同様のロジックです。粗すぎるでしょうか。ベケットのような作品が日本で出るのは50年早いとおっしゃるのならば、文芸は進歩するというか或いは破綻へ向かうのかということでしょうか。リヒャルトシュトラウスは、その時代もうすでに古臭いといわれる作曲をしており、同時代には顧みられなかったようですが、寧ろ今は受け入れられているということもあります。何が言いたいかと言いますと、つまり、作り手の意識だとか、受け手の意識だとかは、一定ではないということだと思います。作り手の意識、ここでいう根拠はそれほど絶対的なものではないということを申し上げたいのです。なにがしかの理由をつけることは、何か作るときにはある程度必要かもしれませんが、それに世界が拘束されるとはどうも思えないのです。何がいいと感じるかは、ほとんど偶然と言っていいかもしれないと思えるのです。わたくしはベケットのような作品は、日本では50年たっても生まれないような気がします。なぜかと申しますと、あの期待と落胆の相克はどうもアミニズムの支配的な世界では生まれようもない背反だと思われるからです。それほどにくっきりとした何かの傷がないと書かれないものだと思われます。わたくしにも大きな傷はありますが、あのような世界を書かねばならないかどうか、今のところ必ずしも追随する必要も感じません。今後はどうなるかわかりませんが。だからと言って極端にホームドラマを書いていると受け取られるのは、粗いと思います。やはり白光の世界もプリズムを通せば赤外線から紫外線まで別れるように幅があると思われます。渡邊さんのおっしゃり方はわたくしには何か無頼派文士のあり方を思い出させます。仮面紳士的にふるまおうとは思いもよりませんが、それでも、自分というものをさらけ出すというのは、わたくしには出来かねることのようでありながら、やはり出てしまっているところはあるのだと観念しております。わたくしは自分からきっぱりと自己表現をしようという意図は持ちませんが、自分の意図は裏切られるものだということぐらいは感じてもいるのです。ところで、わたくしは書きたいから書くという以外のことはあまり申し上げられないという気がしております。何か衝動のようなものを感じて書くというのはおかしいでしょうか。天才肌でもないのに滑稽かもしれませんが、理由をつけてもその理由から乖離してゆくだろうことは、推察可能と思われます。


←次の記事
「菊坂さんへ2」 
前の記事→
 「玲はる名さんへ」

ですぺら掲示板2.0トップページへ戻る

このページについて...

2010年07月06日 11:26に投稿された記事のページです。

次の記事←
菊坂さんへ2

前の記事→
玲はる名さんへ

他にも
  • メインページ
  • アーカイブページ

  • も見てください。

    アーカイブ

    ケータイで見るなら...


    Google
    別ウィンドウ(orタブ)開きます。

    牛込櫻会館(掲示板1.0他)内
    ですぺらHP(掲示板2.0他)内
    Powered by
    Movable Type 3.34