このところ意識の不確かさについてよく思う。自分のルーツとかアイデンティティとかひとは宣う。あるひとは才能を、趣味を、知識を、意識を、記憶を、持って生まれた性格を自分そのものだと錯覚する。しかし、ひとは手脚を失っても生きているし、記憶を失っても生きている。意識を失ってすら生き続けているのである。意識や記憶を自分と仮定するのは健康者が考えつく与太に過ぎないとわたしは思っている。自分を知るというのは玉葱の皮むきのようなもので、終着点はどこにもない。すぐれた文学というものはその終着点のなさを描き、玉葱の皮むきに精を出すことではないかとすら思う。ボードレール、マラルメ、ジュネ、ベケット、カフカ皆そうではないか。
一篇の詩が革命をもたらさず、一篇の詩が何等の変革をももたらさないであろうことは分かっている。それでもなお、虚無相手のデスペレートな闘いは続けられる。その営みこそが文学だからである。「文学をやっています」と人は云うが、「虚無をやっています」とか「絶望をやっています」と人は云わない。云わないひとは「文学」と「虚無」とがどのような関係にあるのか、その辺りの消息に目をつむっているからである。
詩歌を読んでいても世の中は欠損商品だらけである。況や詩歌を読まない読書人などあってはならない存在だと思う。何時から詩歌が等閑視されるに至ったのかはどうでもよい。等閑視して済ませようという個々の人の心根こそが問われるべきである。詩経を持ち出すまでもなく、文学は詩にはじまって詩に終わる。散文では表し得ない種類のシミリ、メタファー、ネトニミー、シネクドキ、アレゴリーに満ち溢れている。それらを理解し咀嚼する詩精神を養うことこそが読書人の唯一の務めであるまいか。