花柳界では女性客は嫌がられる。その理由のひとつが風景に溶け込まないからである。女性はどのような場にあっても自らの立ち位置を探し出してきて主調する。抽象化された、すなわち濾過された話題にはついていかれないのである。もしくは年端もいかない芸妓から風景のように扱われることに堪えられないのである。まるで見下ろされているかのごとく錯覚するのであろうか。
個と個のあいだにあって、分離はあっても対等はないとする考え方をわたしは福原で学んだ、例によってちょんの間である。浮世風呂の一時間は四十分、ちょんの間のそれは二十分である。わずか二十分の交接のあいだに、男は思いの丈を吐きだし、女は男の思いを眺めやる。おそらく、ここには愛と名付けられるさまざまな種類の思いと行為が凝縮されている。
「仮象と客観的な実在性とがさかしまになっていた」と書いたが、いつも女は風景を眺めている。きっと、受け取るお足すらがひとつの風景だったに違いない。この消息はジュネのような男色家にとっても同じだった。男にしてからが、排泄と同時に逸るこころは鎮められ、一瞬の後には「ばつの悪そうな、済まなさそうな顔」に戻って立ち去ってゆく。
前述した女性客が持つ主体性を娼婦は持たない。もっとも、眺めるという行為も一種の主体である。しかし、能動的な主体ではなく、著しく静的な主体である。娼婦には選択も参画もない。あるがままに過ぎゆく行為を眺めているだけである。まるで神のように。
理屈が優先されるのがわたしの癖で、立ち位置を探しているのはわたし自身なのかもしれない。知己から悪罵は書くな、主観を除いたところに悲しみが派生するといわれた。表現の骨幹を端的に示唆されたようで、身震いした。感謝する。