お茶屋では仕事、経済、政治のはなしは禁句である、時として趣味のはなしすら。お茶屋に上座、下座はあっても、みなさん常連であって平等に扱われる。それでなくとも、人品に上下などあろうはずがない。従って仕事のうえでの上下関係は無視される。花柳界はどこまで行ってもフィクションの世界であって、それがいやなら席へ上がらなければよいのである。
スナックやクラブは水商売ではないのでお茶屋とバーを一緒にできないが、仕事に関するはなしは極力避けるのが無難である。そのための共通の話題として当店ではモルト・ウィスキーがある。とは申せ、吉行のような遊び人はめっきり寡なくなった。飲み屋へまで自分の世界を引きずってくる方がいらっしゃる。飲み屋はしがらみから離れ、ひとり静かに酔いを愉しむ場であろうに。
昔、なぜワーさん、ターさん、ナーさんと名前を呼ばずに符丁で呼んだかといえば、名前だと現実に引き戻されるからであった。時計がないのも同じ理由である。里ことばも同様で、芸妓に出自は無用である。祇園に就職(置屋に所属すること)した若い女性が雲と蜘蛛、箸と橋、雨と飴を同じ発音にするに腐心していたのを思い起こす。
フィクションの世界と書いたが、パーソナルな部分を捨てた、謂わば人形劇の世界をわたしは花柳界に視ていた。裏側では集娼や散娼、または黴毒や麻薬などが蠢いていたが、お茶屋の席もしくは花魁(これこそ一緒にならないが)というものは、そうした雑事一切に関わりなく、常に美しく輝いていた。「夢こそ真」ではないが、あの世界では仮象と客観的な実在性とがさかしまになっていた。その危うさに少年がどうして惹かれていったのか、そこのところを描きたいのだが、思うに任せない。
いずれにせよ、苟且の場とはなにかと、いまにして考えさせられる。大切にとはしかるべき距離を指し、諛いとは一足飛びに相手の胸元へ蹴りを入れることに他ならない。距離をなくしてひとときの囲いは提供できない。