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如何でもよいこと   一考   

 

 「最後の鍋会」の後半はちょいと難しく書いた。理由はこれ以上ひとを傷つけたくないからである。しかし、病人が感じる疏外感はわたし個人のものではないだろう。繰り言がどなたかの役に立つかしらとも思う。
 例えば、風呂へはいるとさまざまな問題が生じる皮膚疾患に罹った場合、苦痛を避けようとして風呂から遠ざかる。しかし、回りは疾患に罹ること自体が非衛生にしているからだと憶測する。湧いているよ、這入んなさいよ、旺んに薦めるが、それで駄目なら、たまさか入浴した際に、やはり気持いいでしょ、無精髭はない方がいいよ、男前があがったねなどと褒め上げる。しかし、これは鬱病のひとに頑張れと言い続けるのと同じ効果をもたらす。この場合の「頑張れ」は気にかけているもしくは気に病んでる、同情しているとの意思表示なのだが、これが患者にとっては新たな苦痛のたねになる。ひとに迷惑を掛けて生きているといった種類の自覚ないしは自意識が患者のなかでいやまさり、一段と鬱を昂進させる。要はデフレのスパイラル現象と同じである。
 基礎疾患に限らないが、ひとつの病はさまざまな症例をもたらす。わたしのような慢性腎不全の場合は血液が異常になるために、なにが起こるか予測不能になる。そのような場にあって成因論は意味をなさない。なぜ罹患したかではなく、いま出来ることはなにかが問われなければならない。ひとつひとつの病例に則した薬物の種類と量が必要になる。よって、当方の心掛けも症例に応じて揺れ動く、対応するに精一杯で、まわりへの気配りは疏かになる。ところで、気配りというものは双方向ではじめて成り立つものである。気配りが方向性を見失ったときの結果は明らかである。
 以上は気配りが病を進行させる典型なのだが、この構造は看る側、看られる側の双方に通じる。どちらかが諦めるまでつづく構造なのだが、諦めた時は双方の関係は新たなディメンションに立ち至る。
 「鬱病」はかつて「怠け病」と揶揄されてきた。そしてあらゆる病気は鬱病同様、怠け病と解されかねない症例を抱えている。「今回の病症から感じる疏外感を顧みて、鬱病と同種のものを嗅ぎ取った」と書いた内容のほんの一部だが、ここから先は書きたくないので以下削除。


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2010年02月01日 13:58に投稿された記事のページです。

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