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最後の鍋会   一考   

 

 おっきーさんのご好意によって一羽九千円の鴨がみなさんの胃袋におさまった。当方で用意した鴨が恰度二羽分、併せて三羽の鴨が地上から消えた。おっきーさんには後片付をお願いした。そうでなければ、後片づけに朝まで掛かっていたに違いない。これでですぺら最後の鍋会が無事に終了した、それほどに身体が弱っている。おっきーさんに深く感謝したい。
 片づけが終わり、帰ろうにも身体が動かない。店で休憩しているところへ山崎医師が来られた。他にも一時を過ぎてから常連さんが複数来店、事情を説明して早急に切り上げていただく。帰宅は三時半だった。

 今週も血液検査で山崎医師を訪ねる予定だが、病院外で話し込むのは久しぶりである。このところの体調不調など、人前では憚られることを細々と相談する。全身に拡がってきた発疹、皮膚の剥離感、睡眠中にまでつづく痛み、むくみと頭痛、倦怠感と疏外感、目に見えて衰えてゆく生気等々、ことごとくがはじめての経験なので施す術が分からない。
 「よく喧嘩をしたのは吃音がもたらす精神的緊張と意志疎通が思い通りにいかないことが理由である」と前項で書いたが、精神的緊張が吃音をもたらすのでなく、吃音が精神的緊張をもたらす。今回の病症から感じる疏外感を顧みて、鬱病と同種のものを嗅ぎ取った。健常者(この言葉の概念はいまだに理解できないが)にも、さらには医師にすらどこまで理解できているのかすこぶる疑問が残る。医師の場合は症例に対する記憶の引き出しが一般と比して格段に多いのは認めるが、理解という点では同じように心許ない。医師としての発想が時として患者の疏外感を昂進させることもありうる、と医学の本質に迫るような会話がつづいた。
 看る側と看られる側、双方がより多面的な発想法を持たない限り、医学が医学として成立し難いのではないだろうか。かかる柔軟な意見を持つ山崎医師の素晴らしさを思う。吃音と同じで、病人にとってはまず症例ありきである。症例がすべての発端となるのであって、そこに意志力や精神力の軟弱を読み取るのを藪医者という。日本の医学は遅れている、とりわけメンタルな面にかんしては未だに戦時のそれ(大和魂)と大差ないのではないだろうか。
 さて、わたしは看られる側だが、そのわたしに多面的な発想法の持ち合わせがあるのだろうか、自らの生と死をどこまで客体化できるのだろうか。山崎医師から学ぶことは多い。


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2010年01月31日 23:00に投稿された記事のページです。

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