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平井功   一考   

 

 昭和四年八月十八日平井功の纂輯になる襍誌『游牧記』が創刊された。木炭誌を本文に用い全頁二色刷りの手縢本、表紙に用いた極上の局紙には上海の聚珍倣宋字体の活字によって「游牧印書局」と刷られている。扉には限定記号および蔵儲の氏名が活版にて刷り込まれ、巻末には第一号より最終号に至る全冊子の購読者氏名が記されている。恐るべき執心であるが、かかる定見は本邦における先駆的な造書家の一人にこそふさわしく、あっぱれな為事であった。
 当時、改造社の『現代日本文学全集』に端を発した大量生産による廉価版は空前の盛況を呈し、世に謂う円本ブームの真直中。その雑駁な出版界にあって衆愚を厳しく蔑如し、またなんら典籍学上の規矩を持たないいわゆる〈豪華版〉を忌みきらった平井功の見識は、襍誌の部数を六百十六部と劃った事に端的に現れている。もとより書物とは選ばれた少数者のために在し、内容に応じた活字と用紙と装いが献ぜられねばならない。造書家平井功の面目もまたそこに存在した。かつて処女詩集『孟夏飛霜』(大正十一年十二月)の上梓に際し、典籍の形態美における特異な才能の片鱗を示した平井功の、蘊蓄を傾けたであろう開板趣向書が、世の具眼者を瞠目せしめた事は想像するに難くない。だが、この日は栄光への苦衷に満ちた歩みの始まりでもあったろう。十一月三日発售の第一巻第三冊の游牧後記には、両手に小包を持ち、郵便局へと、ぬかるみを雨にうたれながら幾度となく往復する様がこと細やかに記されている。
 「わたくしは何の為にかくの如くにしなければならないのかと考えずにはいられなかった。唯損失を招き、自己の時間を奪われる為だけに、こんなことをしている自分の愚を嘲らずにはいられなかった」
 個人の手になる出版事業が引き起す問題のすべては財政上の一点に帰着すると言っても過言ではあるまい。単なる奢侈逸楽を排し、すぐれた材質の用と美を極限まで活かし、印刷と造本に完璧な気韻を求めた平井功も、拠りてたつ基盤を持たぬ以上自滅するの他はなかった。かくて自家の排印工房を夢み、「書肆経営術に頼らず、専ら純粋の典籍学上並に造書術の知識による書肆の経済的独立」を究めんがため剏められた游牧印書局は、わずか四冊の襍誌を刊して終焉を迎える。所詮は〈南柯の一夢〉であろうか、いま「游牧記」は清楚な趣に溢れてかぎりなく淋しい。

 七十二年の頃、図書新聞へ上記文章を書いた。今ではこのような安っぽく非論理的な考え、即ち「書物とは選ばれた少数者のために在し」といった選民意識を憎悪こそすれ、決して受け容れないが、当時は平井功をそれなりに畏敬していたのである。文中にある孟夏飛霜が上梓されたのが平井功十六歳のとき、思うに十五、六から二十五歳位までが人にとっての旬で、あとは老残ということになろうか。
 アナーキーとニヒルでは政治的動機と位置づけが異なるが、わたしは大正期のそれに倣って均しく扱っている。アナボル論争はあったが、アナニヒ論争なるものは存在しなかった。季村敏夫さんの「山上の蜘蛛」を読んでもそうした消息は変わらない。そして平井功もアナーキズムに走り、獄中で感染した病で夭折する。当時のそういった未分化な考えは同じ大正期に流行った相対性とも通底する。要は中心点の喪失である。中心点の喪失を信じる、言い換えれば信じないということを信じるという、撞着甚だしい考えに囚われたきり、わたしの精神から進歩の概念が失われた。
 以降は、どうでもよいこととどうでもよくないこととの撰別に傾注してきた。それこそが趣味に近いどうでもよいことなのだが。いかなる言葉、すなわち概念であろうともなにものかに相対する。その一方をとって絶対視すること自体がどうにもならない矛盾なのだが、その優位性を競ってひとは議論する。わたしがいうどうでもよいこととどうでもよくないことはそこはかとなく漂う臭いのようなもので、議論の対象にはなりえない。


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2010年01月18日 19:38に投稿された記事のページです。

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