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 高遠さんは訳者あとがきで実に注意深く旧訳に触れられてい、その慎重さゆえに触れてはならぬ問題かとわたしは思っておりました。随分と前ですが「ジャン・ジュネについて一言」を掲示板で書きました。あの拙文はそっくりそのまま「Oの物語」にも関連するはなしです。
 進化とは繁殖により適した形態への変化を指すと理解しておりますが、六十年代、七十年代の文学は反進化論に彩られていたように記憶します。反進化論を反体制、エロティシズム、オカルト、幻想と置き換えても同じです。内省もなく、ことごとくに反対する彼等の姿勢は旧社会党や共産党のドグマティズムとなんら変わるものでありません。オカルトにしてからが、徹頭徹尾相対的な概念によってでっち上げられたもので、これがオカルトといった概念は何処にもございません。
 「サルトルの失敗はものと人間という二元論で世界は割り切れるものではないという一点に帰着する。同性愛者は同性愛者として生まれるのであって、同性愛者として育つのではない。ひとしなみに取り扱うのでなく、世の中にはさまざまな例外があることを認めなければならない」と書きましたが、当時、事実を実証主義的に認識しようとした作家が、文学者がどこにいたのでしょう。「新宿泥棒日記」を取上げたのも一部の男性の宣う一方通行のエロティシズムに疑問を抱いたからであって、あのような方々にこそ「Oの物語」が必要でなかったかと。否、彼等こそが「Oの物語」を曲解していたのではありますまいか。
 翻訳のことだけを述べているのではないのです。澁澤龍彦、生田耕作といった人たちの思想性のなさにはうんざりさせられます。フランス語ができるという理由だけで翻訳を試みる資格があるのでしょうか。澁澤氏は時代の寵児といいますかアイドルのような方で、ご指摘の「旧訳支持者」が多くいるであろうことは容易に憶測できます。アイドルはイドラであって盲目的尊信の対象物にしか過ぎません。従って、そういう人たちに高遠訳と澁澤訳との質的な違いを述べたところで詮無いはなしです。読者のおつむが花田清輝的弁証法から一歩も離脱していないのですから。
 今回の「Oの物語」を読むに際して、新旧の訳を比較して読むなどということができよう筈がないのです。てにをはという文章作法を比較していては嗤われます。巻頭のジャン・ポーランの「奴隷状態における幸福」を読めば分かるのであって、これまで意味不明だった箇所がことごとく解明されます、かつ平易な文章で。これを「至芸」と呼ばずなんと呼べばよろしいのでしょうか。
 「男の性に対するカリカチュア」と書きましたが、これには二重、三重のクエスチョンが付きます。ひとつは書くに至った経緯ですが、「序 恋する娘」はマンディアルグが指摘したごとく愛惜措く能わざる一篇。いまひとつ「ふたたびロワシーへ」はさらに大きな問題、文体、構成が前章と異なるという点です。このふたつの問題の因果関係は同じものでなかったかと、そこにドミニック・オーリーの作家としての限界を垣間見たような気がしたのです。限界などと書くと己が不明を露呈することになります。わたしはジャン・ポーランのあまりにも大きな影を示唆したかっただけなのです。

 「必ずしも反映されてゐないオーリーの思想や文体を生かさなくてはならない」と書いていらっしゃいますが、対象たる作家をかくまで敬愛し、理解し、解体し、同化しての翻訳は顧みてもほとんど存在しないのです。同時代に高遠さんのような希有な翻訳者を持ち得たことに感謝すると共に、わたしがごとき外国語を解さぬ者へのあまりにも大きなプレゼントに読書の醍醐味を堪能させていただきました。エロティシズムについては「Oの物語」一篇で大満足、あとはプルーストの翻訳を鶴首致しております。それまでわたしの命が長らえばよろしいのですが。


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2009年11月18日 22:05に投稿された記事のページです。

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