知己から数篇の詩を頂戴した。一篇ごとに読むと結構良い作品があるのだが、通して読むとなにを訴えたいのかがいまひとつ掴めない。適確な表現を求めるにあたってヴォキャブラリーは豊富にこしたことはない。ただ、ヴォキャブラリーだけでは詩にはならない。ときとして言葉に対する禁欲的な姿勢が必要になる。禁欲が行間を生み、余白を生む。その行間や余白でひとは思いをめぐらし、思索に耽る。
語彙の乱反射は見て取れるのだが、作品としての方向性に欠ける。これは若い方の詩作について回る問題点なのだが、自分の存在の輪郭(友人の表現)が本人に見えていない、言い換えれば表現しないといけないところのものが見えていないとなる。心象をいくら詳述してもそこからはなにも生れない。読み手をどこかへ連れて行こうとするなら、そこには書き手の思惟が加味されなければならない。その思惟は時として読み手をとんでもないところへ連れて行く。そこに読書の醍醐味がある。
自分自身とのあるいは社会との葛藤、いかに抗い、もつれ、対立したかを描くことが作品の底辺になければ、それは思惟を欠いた作品となる。いっそ社会と対峙したときの自分の弱さを徹底的に赤裸に描くとか、相対性のなさを自分自身に向かって暴くとか方法はいくらでもある。
友人は輪郭といったが、それは個性であり、アイデンティティであり、自分の位置づけのようなものである。自分を知るには自分について考えなければならない。自分について考えるとは常に自己を表明しつづけることである。詩作を試みるとは、取りも直さず、考えることである。自己を表明しようとする意思と思索は手に手を取ってやってくる。傷つくことを拒んだり、気取っていては詩は書かれない。
詩作とは難儀なものだが、それを評するとはさらに難儀である。若いひとの夢を削ぐようなことばかりしているような気がする。それにしても人はいづれ独立しなければならない。生きのびることから生じる悶着を一身に担うようになる。好き嫌いという頬被りではなにひとつ片づかない。いづれ自分を開国しなければならないとするなら早いに越したことはない。