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音楽療法   一考   

 

 二十日の宵、若い方が音楽療法について幹郎さんと話されていた。詳しくは知らないが、音楽療法士というのはボランティアでこそ可能で、職業として成り立つものではあるまい。音楽療法であれなんであれ、基本は心理療法であって、骨格をなすのは臨床心理学である。心理学者が音楽をカウンセラーの場で利用するのは有効かもしれないが、音楽家が癒しまたは治療目的に音楽を用いるという構図は、わたしには理解できない。目的は癒しまたは治療にあるのであって、問われるのは患者への問い掛けとその話術の積極性にある。生きる意欲を引き出す、あるいは他人を救おうという考え(偽善ともいう)が心理療法の基本をなす。繰り返すが、相手の苦衷を繙き、そのなかにいかに解体してゆくかが問われるのである。どこまで行っても、対話が主であって音楽は従となる。
 日本音楽療法学会認定の音楽療法士という資格があって、そのような権威、権力が必要な職業とはどのようなものであろうか。資格というからには資格認定士がいるはずであって、そのひとたちは資格を授けるのを商売とする。その場合、資格を得ることによって甘受できるであろう特権を大書しなければならない。よって資格の差別化のためには詐欺的行為をも平気で働く。昨今問題になった漢字検定や数学検定を持ち出すまでもなく、あらゆる検定協会の類い、または官僚の天下りに至るまで構造は同じである。
 飯が食えるのは資格認定士だけであって、認定される側は単なる鴨である。認定証であれ、卒業証書であれ、宛にならない紙切れのために出資するのは資格認定士の懐を沃やすだけなのである。組織、団体、法人、大学、予備校のいかんを問わず、資格の売買を商いとするひとをわたしは信じない。
 金銭についてまじめに考えれば考えるほど、ひとは資格取得の泥沼へ嵌まる。もう少し、暢気に気楽に人生を考えていただければ良いのだが。ひとを介護するにも資格がいるらしいが、それなども介護士の認定試験を行う人の懐を潤しているだけなのである。生きるのになぜ資格が必要とされるのか、人生の免許証乃至は卒業証書なんてものはどこにもありはしない。また、権威、権力といかに抗って生きるか、文学が考えることといえばその一点のみとわたしは思っている。


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2009年11月11日 15:47に投稿された記事のページです。

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