ちはらさんが林達夫を読みたいという。最初ならと、「歴史の暮方」と「共産主義的人間」の仙花紙本を持ち出すも、気になって理由を尋ねた。彼女がいうには類推を知りたいとのこと。本を読んでも裏の意味を読み解くところまでは手が及ばないらしい。マラルメでも読むのなら林達夫も悪くはないが、最初がそれなら、類推がスイスイ進まず自爆する。そもそも類推なんてものは小中学生の頃に読むであろう詩歌がその能力の骨格を決める。三十路になれば生活体験がそれを補うものである。
そこで、柿沼さんが編輯した種村さんの「楽しき没落」所収のキング・コングの図像学からまず薦めた。彼女はキングコングを観ていないという。ゴジラのようなものだが、観る必要などどこにもないとわたしが応える。あのエッセイは図像学とのタイトルからしても、類推の構造をうまく説きほぐしている。種村さんは往時を振り返って、映画評論の依頼しかなかったのでと仰有っていたが、託つけてものを書くという表現の本質が繰り返されたのが最初のエッセイ集「怪物のユートピア」だった。
キング・コングの図像学一篇を読んだちはらさんの目は輝いていた。類推のみならず、種村さんの底意地の悪さ、悪意のようなものを読み取ったようである。彼女は既に類推の渦中にある。