レイアウトが崩れる方・右メニューが表示されない方: >>シンプル・レイアウトへ

« 身勝手 | メイン | パピヨン »

山崎利彦さん   一考   

 

 山崎医師来店、幹郎さんと一緒になって病について死について語り合う。幹郎さんはずいぶんと山崎医師を気に入ったようだが、然もありなんと思う。医師はわたしを街の不良親父と見立てている、よって気に入らなければ診療拒否も有り得ると考える。しかるに診察に来るということは、どうにもならなくなってなんらの扶けを求めている、そういう時は必要最小限の手立てを講ずる。さらなる診察が必要であっても、そこから先の判断は本人に委ねる。
 このようなことを書くと、まるで医師としての務めを投げ出しているかのようだが、決してそうではない。彼は間違いなく名医である、と同時に不良の扱いにも精通しているのである。わたしが「あと一年生きようと十年生きようと、そのような瑣末なことはどうでもよい」と書くとき、その真意を深く諒解する能力を彼は併せ持っている。
 聞いたはなしだが、スウェーデンでは子と親が同居することはない。親はしかるべき歳になると施設に這入る。施設の看護師は食事を提供するが、摂取行動は手伝わない、腕組みをして黙止するのみ。食べないという行為も食べられないという行為も均しく摂取拒否と判断される。要するにそこで老人を待っているのは餓死である。雑宝蔵経を源流とする「更級の姨捨山」や「木の股年」を想起していただければ結構だが、わが国の老人介護の有り様とはまったく異なる。その根本には個というものへの認識の差違が横たわっている。
 先日、癌を患っている友人に事後報告したところ、その友は抗癌剤の投与を止めたという。最期だけは自らの意志でと云っていたが、われら不良の最期はそうでなければならない。
 主治医と呼んでいるが、山崎さんは泌尿器科の医師である、にもかかわらず、骨折の修理は自分でするからレントゲンだけ撮ってくれ、痔の発作が起きたときも緊急外来で深夜に押し掛けて痛みだけ除去してくれ、と無茶を承知で専門外のことをお願いしてきた。要は全人的に信頼しているのである。山崎さんは医師であると同時に個としての倫理感を持っている。その振幅は尋常な距離ではない。迷いを迷いとして容認するにいかほどのエネルギーが必要かをわたしは知っている。わたしは複雑な存在が大好きである。かかる医師と知り合えたことに深く感謝したい。


←次の記事
「パピヨン」 
前の記事→
 「身勝手」

ですぺら掲示板2.0トップページへ戻る

このページについて...

2009年08月14日 15:37に投稿された記事のページです。

次の記事←
パピヨン

前の記事→
身勝手

他にも
  • メインページ
  • アーカイブページ

  • も見てください。

    アーカイブ

    ケータイで見るなら...


    Google
    別ウィンドウ(orタブ)開きます。

    牛込櫻会館(掲示板1.0他)内
    ですぺらHP(掲示板2.0他)内
    Powered by
    Movable Type 3.34