年少者がすばらしいことを書けば、褒めそやさなければならない、それが例え自分の子であっても。掲示板は毎日覗いているが、メールは三日に一度ぐらいである。だから隆さんからのメールが届いているのに気付かなかった。
隆さんについて書くにはいささかの躊躇いがある。その躊躇いはわたしが親として成すべきことを何ひとつしていないところにある。何もしていないにもかかわらず、隆さんは親としてわたしを遇してくださる。言い換えれば、わたしは彼によって親にさせられているようなものである。文中に「もしお手伝いできるようなことがあれば言って下さい。親孝行らしき事はまだ何もできていなかったもので」とある。恨まれてこそ順当、憐憫の情をかけられるとは意外だった。お気持ちに対し、深甚の謝意を表したい。葬儀は願い下げだが、数年後には彼なりの野辺送りをすることになろうか。海原への散骨を望むが場所に希望はない、とでも書いておこう。
同じメールのなかに「沢山の人が、まだまだあなたを必要としていますし、私もそんな中の一人であります」と書かれている。双方が当事者であることは差しおいて、自らの心情の吐露に先立って見知らぬ他者への気配りを忘れない。彼がいつ頃からこのような遠慮の構造を学んだのか分からない。ただ、見事な心掛けと感服させられた。またひとり、よき友を得たと思う。