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重ねて   一考   

 

 前項で書いた「ふりかえる」を繰り返し口遊みながら、森田童子の「海を見たいと思った」を聴く。同日の談ではないが、浅川マキはアンダーグラウンドを固守し、森田童子は75年から83年までの活動のあと沈黙する。私性に対する姿勢という点では共通項が見られる。
 私性と書いたが、これは個性を意味する。早いはなしが自分の生き方を擬える行為それ自体が唄になっている。もしくは唄そのものが生き方を示唆しているといえようか。この消息は文学にもそのまま通じる。そこで私はいつも考えさせられる。
 デュシャンの登場が絵画と文学との蜜月に終止符を打ったように、いつ頃から文学と人の存在との間の架け橋がなくなってしまったのか。例えばカラオケへ行ったとする。当然のことながら歌う側は自らの人生を顧みて共感なしうる唄を歌う。この場合、巧拙は問題外である。大事は味わいであって、味わいは同感や共鳴ないしはこころの共振がもたらすものである。
 例えば古書店へ行ったとする。堆く積み上げられた書物のなかから選ぶのは当然のことながら共感なしうる内容の書物である。この場合、作品の巧拙は問題外である。大事は同化であって、同化は同感や共鳴ないしはこころの共振がもたらすものである。その同化しようとするこころを私は自己解体と呼ぶ。
 「熱と理由」一冊がどうして私を涙ぐませたかといえば、死んだ友への共振が全篇の基調モチーフとなっていたからである。「熱と理由」は彼の「二十歳のエチュード」であり「死人覚え書」だった。読了し、涙腺がゆるまなかったとすれば、その人には書物を読む資格なんぞありはしない。
 人は不器用なもの、「さまざまな種類の自我の同時存在はあり得ない」と書いた。人はどうあろうとも全力で疾走するしかない。ありとあらゆるジャンルでもって人は個であることを証明しつづけるしかない。ある領域の自分とある領域の自分とが異なることなどあってはならない。その染め抜かれた色が私性であり個性である。


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2009年01月11日 23:42に投稿された記事のページです。

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