ちはらさんが居ないので新宿へ行く、居てもゴールデン街へ行く。要するに彼女の存在と呑みに行くゆかないは関係ない。関係ないなら書かなければよいのだが、そうもいかない。帰りの足があると安心して泥酔できるが、足がないと酒がすすまない。酔っ払った時に私がどうなるかを知っているのは私だけである。いつぞや新宿駅で踊り出したらしく、その舞踊はいまだに語りぐさになっている。時としてベンチと交合、しがみついて離れなくなる。時として電信柱と熱烈な抱擁を繰り返す。時として電車の床が天蓋付きの寝床に思われてくる。しかして一宿目合うのは物体ばかり、酔うと生身に興味はなくなる。要は不如意、言い換えれば適度に酔うのが苦手なだけなのである。
ところで不如意を広辞苑でひくと「どちりなきりしたん」が出てくる。ポルトガル語の「どちりいなきりしたん(キリスト教の教義)」に由来するのであろうが、そのような意味があることすら私は知らなかった。天正のキリスト教教義のカテキズモは知っているが、どうして不如意なのであろうか。さて、また酔っ払ってきたようである。