「現代詩手帖」一月号に、去年の十一月に神戸で催された佐々木幹郎さんの講演「私が詩を書き始めた頃—1968年前後」が掲載されている。「熱と理由」と併せてお読みいただければ嬉しく思う。
過去を「ふりかえるための文体が、わたしのなかでまだ見つかっていない」ので二十代について書くのは辛く苦しいという旨のメールを幹郎さんから頂戴した。ひとの身体は前進にこそ向いているが、後ずさりには適していない。単にふりかえるだけなら簡単なのだが、それでは肝腎の「熱」が失せてしまう。ふりかえる時にはしかるべき後ずさりが必要になってくる。それを弁えない冷や飯のような文章が世上に濫れている。文学は搖れつづける自分のことを書くのであって、決して他人事であってはならない。
「熱と理由」のなかに小林秀雄について書かれた「最も奇妙な場所」がある。文芸時評をはじめたのが川端康成なら文芸評論は小林秀雄をもって嚆矢とする。そして小林を凌駕するものは未だに現れていない。小林は好悪でものごとを判断しない、常に最終判断は留保されている。彼は理解しにくいものがあると、対象となる場へ後ずさりする。早いはなしが彼自体が揺れ、振れつづけている。文芸評論家としてでなく、思索者として高く評する理由がそこにある。
前項で「魘された時代」と書いたが、あの騒乱期にあってしっかり小林秀雄を見据えていた佐々木幹郎さんの眼力に脱帽、よき友を得たと思う。