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「宛先のない小包」   一考   

 

 破滅と自己顕示とは常に寄り添っている。このところ起きる事件を見つつそのように感じる。因果関係はことごとくが私忿であり、そこから生じるトラウマである。アナウンサー、リポーター、キャスター、コメンテーター、アナリストと称する人たちは事件の裏を探ろうとして、そこになにものも存在しないことを知って愕然とする。例えば元事務次官の殺害に関して政治的背景やテロリズムを端倪するも、幼少期の保健所による犬の死が理由だと聞かされて、その虚しさに嗟咨する。
 しかし、と思う。放送に携る人たちは自らの知を切り売りするのが商売である。その高踏と思われる知識が逆に目眩ましになっていることに彼等は気付かない。知識が邪魔をしてひとの情念が読み解けないのである。
 私は義務教育しか出ていないので、安保世代でありながら学生運動のなんたるかを知らない。それが幸いして、私忿をポリティカルに飾る術を持たなかった。だからこそ、憤りとは個にまつわるものであり、どこまでも私事に由来するものだといまだに信じこんでいる。
 自意識の発育過程で周囲に示す反抗的態度、自ら存在することへの憤り、反抗期の八つ当りほど謂れなきものはない。何に対して怒りが湧いてくるのか、またその怒りをどこへ振り向ければよいのか、ことごとくが理不尽であり、謎であり、ただただ困惑するばかりである。それら宛先のない怒りを私は私忿と称している。小泉某にしたところで、殺されたのが犬であろうが、猫であろうが、兄弟であろうが、親であろうが、自分であろうが同じことである。また殺める対象が元事務次官であらねばならぬ理由はどこにもない。ただ、厚労省の職員名簿の閲覧を禁止したのは役人の自意識過剰であって、臑に傷を持つからに違いない。次は私かという擬似被害者が十人、二十人いてもおかしくないのである。
 安保世代はそのポリティカルな粉飾を情念の名で呼んだ。デカルトは体に起因する心の乱れと解した。それは共に間違っている。デカルトの時代にあっては対立概念だったものが、今日では包括概念になっている。また安保世代は修辞法を組織論に応用したに過ぎない。私にいわせれば、国家権力、国家体制、警察国家、官僚政治等々、いくら修辞を凝らしてみたところで、私忿であり私怨であることに変わりはない。その素裸の私忿、私怨をこそ私は情念と名付けたい。前述したコクトーのいう「宛先のない小包」である。情念とは目には見えない透明な膜に蔽われた憤りであり、愁いによりその淵に凍りついた鏡のような絶望そのものだった。


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2008年12月24日 20:29に投稿された記事のページです。

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