「明けましておめでとうございます」は論外として、「よいお年を」が私には云うことができない。それを口にすると悲しくなって泣き出してしまうのである。小学生まではよかった、だが中学校へそれも高学年になってからは云わなくなってしまった。
今年もあちらからこちらから喪中につき年賀は遠慮するとの手紙が送られてくる。どうして喪がその年だけでお仕舞いになるのかそれが私には分からない。礼儀だけなら、そのような手紙は出さない方がいいに決まっている。私の母は今年死んだが、それと賀状を出す出さないはなんのかかわりもない。前項で書いた事件にしても、保健所で殺されたチロを覚えているはずがない、怒りはそのように続くものではない、というのが大方の意見である。しかし、それをしっかりと胸のなかへ刻み込んでいるひともいる。
自らを振り返ってよい年などあったのだろうか、と思う。それでなくとも、私のまわりには自殺者が多かった。ひとは死ぬと同時に他人になる。同時に、口にこそしないが、こころの友になる。ひとひとり死んで私より悲しむひとは多くいる。だからこそ、口にできないこころの友なのである。悲しみはいやまさるばかり。その憤りも私の大きな情念のひとつである。
前の店では店のドアを閉めてエレベーターのドアが閉まりかけた瞬間に「よいお年を」という。頭を垂れたまま涙が濫れてくる。その涙を拭き取ってから、なにごともなかったように店へ戻るのである。ひとには云わなければならない、だが、誰が自分のために「よいお年を」などというものか。