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偏向   一考   

 

 佐々木幹郎さんから読んでいい作品があればどんどん評価すべきと強く言われた。私もそのように思う。玲さんについて重ねて書いたのは幹郎さんの言葉に共感したからに他ならない。過日、川津さんの詩を嬬恋村まで持参したこともある。その原稿に幹郎さんは丹念に朱を入れてくださった。それは私にとっても勉強になる。
 先月「自意識」で「現世の評価などいかほどのものであろうか。現代の詩人はそのようないかがわしいものを求めて詩を著すのであろうか。結社や同人に属し、関連行事や出版記念会で顔を繋ぎ、当たり障りのない挨拶を繰り返すのが自らの価値を定め高めることだとでも思っているのだろうか」と書いた。昨今の若手は年長者の顔色を窺う、もしくは対抗しようとする。どちらに転んでも、それでは駄目である。より超然と構えるべきと思う。真に必要なのは比較しようのない場に行かざるを得なかった作家である。月並かもしれないが、女性を知らない男、男性経験のない女性、もしくは性的なものからスポイルされたひと等々、ある意味ある部分、世間から隔絶されるのが大切な場合だって有り得る。
 生活環境が許すなら空想の世界、妄想の世界だけを生きたところで、一向に構わない。私の知己で二十代に結婚したものの、僅か四、五日で嫁いだ北海道から神戸へ逃げ帰った女性がいた。曰く「夜な夜な男が私の寝室へ潜り込んでくる、あれは何なの、一考さんどう思う」と。これでは嫁として失格である。結婚について恋愛について、もしくは生活そのものについて事前の話し合いが不足していたか、常識というものが端から欠落していたかであろう。他方、彼女はすぐれた言語感覚を持つ詩人だった。だからこそ、問題はその偏向が作品を著すこととどのように結びついているかにある。
 ひとの精神はなにかしら不自由であって、どこかしら疾んでいる。そしてひとは死ぬが、作品は遺される。そこまで行かなくても、著すことが「自分の生き死にとって必要だと痛感」される場合もある。おそらく、作家とはそのような存在なのである。あとはその偏向に相応しい理解者が得られるかどうかに掛かっている。もっとも、そちらはそちらで別なる問題を抱えているが。


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2008年12月24日 02:50に投稿された記事のページです。

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