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エアメール   周   

 

 知り合いと呑んでいたときに彼が夢見るように「このまま経済が崩壊して日本がぐちゃぐちゃになったらいいのにな」と語った。普段そのようなことを口にしない人だ。また他の知り合いと話していたら、「明日の事を知っていると思うやつは馬鹿だ」と言い出した。僕も含めてみな底辺労働者であって、コンビニエンスストアの前などでいい年をした大人が集まって缶ビールなどを呑みながらたむろしているような光景をみたなら、それは僕らと同じような人種だ。だからこれは僕の知り合いというような特定の誰かが行ったというよりも、あなたが街角のコンビニエンスストアで聞くとはなしに聞いてしまった話と思って差し支えはない。
 別の知り合いは「何者かであろうとすることをよしとしない」と語った。知り合いと書くのは彼を貶め、遠ざけようとするからではない。会っているとき、語り合っているとき、その今は確かに彼と僕はそこに在るがその次のことなどわからない。「じゃあ」といって手を振ったその瞬間に彼と僕はまたそれぞれがそれぞれのうかがい知れない他人へと戻る。それはすぐ近所に住んでいても、遠方に住む人であっても何も変わらない。一度出会ったならば必ず別れ、別れたからにはまたどこかで会うかもしれない。しかし次にあったときの彼と私は以前の彼と私ではない。そのことを得心しているからこそ、彼は僕にとって知り合いであり、また懐かしい人でもある。その彼はまた、担がれることを嫌った。「誰でもあり、誰でもないもの」と語る人ならば当然だったろう。個の集合体としての仲間であれば喜んで参加したが、それが党派になることを嫌った。ひとつの権威であることを決して潔しとしなかった。それは友人関係でも上下関係でも変わらない。そもそも安定した関係などを信じていない。外面を取り繕わずに怒りを表明していることもあった。彼の言う個も「確固たる自分」などではなく、あがいても、苦しんでも、もがいても決して抜け出ることのかなわない存在としての個であったのかもしれない。 友と酒を酌み交わしても、恋人と抱き合っても、師に褒められようと、どうにも消えない孤独というものを個と言い表していたのではないかと、そう思う節もある。そんな人が「我々」などという言葉に組しようはずもない。何かをするのはそれぞれであって「我々」などというものではない。彼はそのことを良く教えてくれた。我々という言葉に潜む多人数の優越感というものを教えてくれた。


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2008年10月20日 20:35に投稿された記事のページです。

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