あまねさんに呼応する形で文章を綴っている。互いに気脈を通じているわけではないので、照応の方が相応しかろう。あまねさんも誰でもないところの(もの)に憑かれたのであろうか。爽やかさのなかに一抹の屈折が宿っているように思う。
あるがままに描けばよろしいのであって、誤解を懼れてはいけない。もしくは何を書いたところで誤解される。いずれにせよ、誤解、曲解が待ち受けているのであれば、好きに書き継いでいただきたい。私などは文章のなかに埋もれて輝きを喪った屈折を掘り起こすことに専心する。屈折は多くは泥にまみれて冱えない、そのような穢れた(もの)を琢くのが私の仕事である。サンエバール、ピカール、テガール、アルボン、酢酸、酸化クロム、コンパウンド等々、研磨剤や研磨布には不自由しない。必要ならアルミナからサンドブラストの用意まである。
さて、とんでもない屈折がまたひとつ迷い込んできたようである。
追記
屈折と書いたものの彼のやさしさが身に沁みる。あまねさんはきっと友達が欲しかったのだと思う。そしてパリの彼はあまねさんに相応しい友だった。なぜ相応しいかと云うに、双方が距離の取り方を体得していたからである、まるで恋人同士であるかのように。
私の歳になると、悲しむのが嫌でこころのまわりに予防線を張り巡らす。そして生な言葉(懐かしい、あがく、苦しむ、もがくの類い)を遣わなくなる。それを羞ずかしく思う。