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もどかしい人   一考   

 

 先日パリの友人からアン・リネルの原書数冊を手に入れたとのメールがあった。しかも彼は辻潤のですぺらだけを持ってフランスへ行ったらしい。彼が林達夫に惹かれていたのは承知していたが、辻潤とは恐れ入った。かくいう私も辻潤の影響を受けて若い頃、アン・リネル、ジョルジュ・パラント、ルイ・ギルーなどに興味を持った。アン・リネルの「赤いスフィンクス」が松尾邦之助訳で上梓されたのが昭和31年、同46年から53年にかけてパラント著作集三冊が翻訳出版された。第一回配本は「ペシミズムと個人主義—近代個人主義の研究」で、いまなお拙宅に蔵している。

 世の中には自分の思いを表明しないひとがいる。表明するのを潔しとしないのである。それは誤解を畏れるのではなく、自分が信じられないのである。今日は斯く斯く然然だが、明日はどうなるか分からない。そのような不確かなことを口にしてよいのだろうか。人は迷いつづけ、震えわななき、そして寡黙になる。寡黙なひとは世間を狭めて生きる。既に形を成しているものを書物にまとめるのではなく、不確かなものを、眩暈そのものをこそまとめるべきでなかったか。文学を解さない編輯者が造る二十冊の書物よりは、文学を解する編輯者が拵える一冊の書物を持つことこそがその人の生を全うする。
 彼がパリへ出掛ける直前、ですぺらで話し合った。フランスへ行って語学を学ぶだけでは不甲斐ない。アイルランドやハンガリーから亡命し、母国語を棄ててフランス語で文章を著す人たちがいる。そういう人たちの屈折したものの考え方をこそ学んでいただきたいと強く薦めた。日本にいては理解すらかなわない種類の思惟がある。五年から十年、うまくいけば更に長くフランスで生活すべきだと語った。帰る必要すらないのではないかとも話した。文学するという行為が必ずしも表現とは結びつかないことだってある。詩を書く人間だけが詩人ではない。詩は書かないが、詩を生きている人だっている。要は思いであり思索である。
 私は彼と今生の別れを済ませた。彼に倣えば、明日のことは誰にも分からない。十年経てば老いた私は保守的になっているかもしれない、もしくは認知症になっているかもしれない。話がはなしとして成り立つのは今だけなのである。その今、彼と知り合えたことを光栄に思う。彼が光り輝けば私も照りきらめく。そんな風景はそうあるものではない。私にとっては横須賀功光以来であろうか。
 「誰でもあり、誰でもないもの、揺るぎない自分というものなど信じない、そうした精神の動きこそ『文学』なのではないか」というとき、その揺らぎには「私(ひそか)に淑(よ)しとする」こころも含まれる。影響とか感化といった概念は微妙である。なぜなら、相手も揺らいでいるからである。従って、あくまで秘めやかなものでなければならない。「今だけ」と書いたのはその消息をさらに厳密にする。
 彼から私は多くを学んだ、私かに。掲示板1.0では彼に宛てて、または自らに言い聞かせる形で文章を綴った。「誰でもあり、誰でもないもの」はときとして彼であり、ときとして私であって、そして誰でもあり、誰でもなかった。人称は自称、対称、他称のあいだを自在にすり抜けてゆく。掲示板2.0ではアナロジーについてメトニミックもしくは重語法を用いて語り続けた。「閉店サービス」のようないささか過激な書き込みすらが、彼への気配りであり便宜であり、そして挑撥だった。彼がいなくなった同人誌にはいかなる意味においても存在理由はない。それでも続けようとするなら、新たな存在理由を構築しなければならない。文学はどこまでも「個のはかなごと」である。
 ですぺら掲示板は「辻潤の虚無思想を伝播させるのが唯一の願いである。願いであって目的ではない。いやしくも辻潤の読者であるなら、人生に目的を持つような愚挙には至るまいと思っている。ただし、勝手にそう思っているだけで、実態は存じ上げない」その願いだけは今なお変わらずにある。

追記
 「もどかしい人」と題したが、間怠っこいのは私の方である。パリの彼にはひとりの師もひとりの先達もひとりの友もひとりの恋人もいなかった、と書くのが相応しいのだが、そのように書けば傷つくひとが多く出る。もっとも真に傷ついたのは彼なのだが。責は常識という錯綜した網を彼にかけた方にある。ひとは秀でた才能をみると自らの位置にまで引き下げる。それが如何に不当なものであっても、かれらは自らの定規を押し当てて溜飲を下げるのである。
 それが理由でこのところ掲示板の書き込みがめっきり減った。じれったいことを書く自分に嫌気がさしたのである。長く掲示板を続けているとそのような気分に陥るときもある。書きたくないときは書かなければよい、ただそれだけのことである。


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2008年10月15日 05:42に投稿された記事のページです。

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