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金子國義さんについて   一考   

 

 金子國義展へ行ってきた。足を引きずりながらであったが、あまねさんと約束していたので無理を押して出掛けた。会場は「L'Elegance」のサイン会で賑わっていた。
 如何な作品であろうとも、それは描き手の歴史観や世界観を如実に顕している。従って、詰らないものは詰らないし、詰るものは理句義のよく詰る仕掛けになっている。何を持って詰らないと云うのか、その事訳は簡単である。多くの作家や物書きは自らの美学を信じ、自らの文章を矜る。自分の体験や価値観がものをいう世界に繭籠もり、いっかな殻を開こうとしない。孤高などという障壁を大事に抱え、抱え込むだけならまだしも、その境地に安住してヒステリカルにまわりを睥睨してみせる。大尽風を吹かし己が空疎な知識をひけらかす俗人たち。彼等の言うことはことごとくが大本営発表である。文学そのものはともかく、そこから得た知識が自らの考えや生き方になんらの影響も与えていない。まるで生き方と知識とが別会計になっているかのようである。「それは小説のなかのはなしだから」とよく云われるが、そのような詭弁を人生に対しても抱いているなら悲しいことである。
 知識の反映の結果が大本営発表(欺瞞とでたらめの代名詞)では、箸にも棒にもかからない。そして、言葉に対する美意識や矜恃を持ち出すようでは未熟の謗りを免れない。会得していて当たり前で、ことさらに強弁する理由がどこにも見当たらない。美などというものはおよそ芸術にとって副弐的なものに過ぎない。浮きて流るる細波のごとき波動、振幅、屈折のようなささめきが皆目見受けられないのである。
 その点、金子國義さんは面白い、作品と人とのあいだになんら乖離がない、これは簡単に思われて大変なことである。金子さんは一見趣味の人であり、一流の美学に支えられた楽園を顕現しているようにも思われる。「L'Elegance」の文中にも「好きなものと好きなものを組み合わせるのが肝心でそこからいいものが生まれる」との金子さんの言葉が引用されている。ところが、この文章の要点は「組み合わせ」にある。思うに、彼の組み合わせはあまりにも大胆である。傍若無人と云っても差し支えはない。「そこからいいものが生まれる」と書かれているのは一見、弁証法的展開のようにも思われる。もっとも、弁証法的であろうとなかろうとそのようなことはどうでもよい。問題はかれの好奇心の旺盛さにある。彼は尻込みしない、ひるまない、作品と人とのあいだを填めるために日夜邁進する。その飢餓感に、私は旧家の今際の炎を想い起こす。
 芸術とは野放途なものである。際限やしまりがあってはならない。一切の約束事や因縁、来歴は積極的に拒否しなければならない。言い換えれば、人生に禁忌があってはならないのである。さらに大切なことは一度拒否したならば、死ぬ日まで拒絶し続けなければならないということ。金子國義さんを見ていて個の冒険者を憶う。


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2008年07月31日 13:57に投稿された記事のページです。

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