湯川成一の名で検索しても当掲示板のほかには出てこない。ある時期ある時代がウェブサイトから欠落しているのは周知だが、人の興味のありようは想像以上に偏っている。
先日、木村さんと話していて思ったのだが、やはり出版は自己満足ではできない。自己満足を辞書で引くと「客観的評価に関係なく、自分自身にまたは自分の行為に自ら満足すること」とある。「関係なく」とあるからには「客観的評価」などどうと云うこともない。問題は「自ら満足する」にありそうだが、どのように考えても自らに満足している出版人などいそうもない。居るかもしれないが、それはよほど経済的に恵まれるか権威・権力を手にした人だろう。この経済と権威は一枚のコインの裏表のようなもので、互いに相殺し合っている。
もしくは「自ら満足する」可能性があるのは、しかるべき対価を得た人ではないだろうか。それならば、経済活動を自らの為事としている人などは似つかわしい。銀行員から大学人、経済的貢献は少ないと思われるサラリーマン編輯者から傭われバーテンダーに至るまでがここには含まれる。
組織に属していようがいまいが、人は大概が自分を過大評価している。よって自己満足はしていないとの声が返ってきそうだが、もともと客観的評価なんぞこの世の中に存在しない。かつて年功序列から能力給に切り換えたとき、サラリーマンの九割以上が自分の給料が上がると信じ込んだ。これなど、笑えるはなしではないか。これも嗤えるはなしだが、自分の頭が良いと思っている人の比率はなんと九十八パーセントだそうである。そしてなんらかの選民意識を持っている人は九十九パーセントを超えるそうである。間違いなく、この九十数パーセントは自ら満足している。
どうして自己満足のはなしになったかといえば、湯川書房や南柯書局の本は原料費の段階から原価割れを起こしている。ですぺらにしてからが、十三万円(6、70年代のアードベッグ)のボトルを一杯五千円で売ると十万円にしかならない。その赤字は一杯千円ほどのウィスキーで購っている。経済の法則を無視しているが故に自己満足ではないかとの論法である。吉岡実の限定本は一冊あたり十五万円掛かったが、売価は二冊(薬玉とポール・クレーの食卓)で十五万円だった。これは金のある時に原材料の多くを購入していたからである。当然、購入していた材料費は加算されていない。死に際に帳尻が合えばそれでよいと思っている。もし死に際に間に合わなければ自死すればよいだけのはなしである。
この辺りからはなしはアナーキーになってくる。自己満足はおろか、自己なんぞ一体全体なんぞやと云いたくなる。好きな本を好きに造って好きに死んで行く。そんな本を買う物好きは百万人に一人しかいまい。売れようが売れまいがそのようなこともどうでもよい。かわべの佃煮と共に送られてきた手紙に「龜鳴屋は自律神経に失調をきたし、長期スランプから脱け出せずにいる」と勝井さん。しかるに少々本が売れてくれればスランプはどこぞへ霧散する。そうした繰り返しのなかにわれわれはいる。経済活動でないところにわれらが寄る辺がある。されば、われわれは小児性嘔吐症、いわば重度の自家中毒患者なのである。