根性、覇気、やる気、意気込み、意志力、闘志、精神力などという戯れ言を久しぶりに聞かされた。特殊な技術や知識を得たいもしくは学びたいと思うからこそ相手のいうことを甘受するまでであって、その人の人品骨柄に惚れてのことではない。特殊な技術や知識を得るに際して、上述の戯れ言を必要とするかどうかは個々の問題であって、一般論としては成り立ちがたい。「根性」が必須であれば「根性」に精進すればよいのであって、「ちゃらんぽらん」が必要な人は「ちゃらんぽらん」にひたすら励めばよいのである。
指物師や板前をはじめとする職人から、大学や研究機関で文学なるものを教えている職人に至るまで、精神論と自らの人格の問題とを混同しているのではないだろうか。精神などというものは私には意地汚さにしか思われない。理由は後述する。
かつて空手に通じた人から「俺が若い頃は花粉症などというものはなかった。近頃の若いものは弛んでいる」、また調理に通じた人から「俺が若い頃は暴力でもって身体に技術を刻み込まれた。近頃の若いものは甘やかされている」と。前者は戦後の林野庁の全国森林計画に対する無知を露呈しているに過ぎないし、後者に至っては人権侵害であろう。いずれにせよ、睹ざる所を以て人を信ぜざるは、蝉の雪を知らざるが若し(塩鉄論)である。
確かに、私は撲られ蹴られて育った。昔の板前修業ではそれが当たり前だった。吸い物仕を造る、出来上るのを待っていて鍋ごとぶっかけられる。一瞬、何が起こったのかが理解できず、熱いと気付くまでに時間が掛かる。叫びにもならない「ヒェー」とのうめき。頭からホースで水を被り身体を冷やしていると、板長から「遊びに来たのか、仕事をしき来たのか」と怒声。
仕事ができなくなるからこれ以上は勘弁してくれと土下座をして謝っても無駄である。土下座している掌を高歯で踏み付ける、指の骨が折れる音が聞こえる。包丁が飛んでくる、鍋が飛び交う、フライパンが跳び、熱湯が舞う、それでも技術を奪いたいから黙って耐える。板長の木刀が止めになって身体が動かなくなる。どうやら失神したらしい。バケツの水をかけられて、その後は精神論の説教が続く。これは映画のはなしではなく、私の体験を書いている。
そのような世界へ若者をひとり送り出さねばならない。事情の何如を問わず気が重い、憂鬱な日々を送っている。これから彼は理不尽な世界へしばし追いやられる、そこで得るのは技術や知識といった情報でしかない。しかるに実体は誤った精神訓の洪水である。洪水を往なしはぐらかす狡賢さをまず学んでおかなければならない。そのこつは沈黙でしかない。沈黙とは動じない心である。若者に動じない心を薦めるのは一種の自己矛盾である。さて、どのように説得しようかと迷う。
それにしても、と思う。かくまでして型に嵌まった人間を拵えてなんとする。若者には老人にはない夢があり一途さがある。歳老いたというだけでも、それは一種の権威、権力を有する。老いたる者は心しなければならない。にもかかわらず、老いたる職人は尊大になる。それが理由で、京都では素質を持つ板前がみんなフレンチやイタリアンへ逃げ出してゆく。名のあるフランス料理店の半数は板前出身者がシェフを努めている。その逆はあり得ない。わずか四、五年で割烹を遁走、そのような未熟者でも東京では西洋料理のコックとして十分に通用する。かくまで割烹の修業は苛しい、いっそ修行と呼称したい。
右手を折られたら左手で喧嘩をする。左脚を折られたら右足を軸足にする。ドスで刺されても三分の一の血が喪われるまでは闘える。私の生への意地汚いまでの執着はそのような状況下で培われた。昨年の十月、鉄工所で左手を削った折、吹き出る血をタオルで縛って鉄板を研摩しつづけた。傷が塞がらなければ瞬間接着剤を多量に流し込めばくっついてくれる。夕方、仕事を終えて家へ戻ったとき、ちはらさんはただ呆れ返っていた。繰り返すが、そうした意地汚さが間違いなく私のニヒリズムの根幹を形づくっている。