母が死んでやはり問題になったのは家系図だった。歴代の氏名から禄高の推移まで実に細かい。苗字と書いたのは、出藍の誉れ高きが跡を継ぐものであって直系とは限らない。さらに昔は養子や養女が入り組んでい、分家が拍車をかける。とりわけ1741年11月、榊原家九代当主政永が播磨姫路藩第四代藩主から越後高田藩初代藩主へ十五万石で移封、六代を経ての戊辰戦争、また戦後の会津藩士一千七百四十二名の御預に至るまで触れられている。城代の差配の一として当然のことなのだが、一級資料としての価値を内包すると認めざるを得ない。
榊原家は本多忠勝と並ぶ徳川四天王の榊原康政を祖とする譜代の名門だが、渡邉家が留守居頭を務めるのは1608年、流罪になった三人の家老のあとを継いでからである。詳細は歴史書や分限帳に譲るが、愕かされたのは勝海舟の執事を務めた者が家系にいたことであった。そちらの末裔は伯剌西爾大使を努めるなど三代に亘る外交官である。
さて、私はその家系が嫌で家を棄てた。どうしようかと相談を受けても困惑する。隆さんへ渡せばとしか応えようがない。話は変わるが、今回隆さんと会って、どうして音大なのかと問い質した。聴覚能力が足らなくて芸大へは行かれないと彼は答える。何時も幹郎さんと話していることだが、二、三歳からはじめないと音楽は無理である。彼が音楽をはじめたのは小学校へ通い出してからである。無理を知るだけでも、それ自体が一つの識見であり才能である。同様に、彼は文学にも取り立てて興味を抱かない。文学は音楽と違って晩成が可能である。しかし、それにしても十四、五歳が上限であろうか。十八歳にもなってから書物をいくら読んでも身には付かない。それは単なる情報として身のまわりを擦り抜けてゆく。おそらく、隆さんの次の世代に家系図を繙いていただくしかない。
両親の死によって、私は本籍地を高田から他へ移し、再度改名する。最後にプライヴェートなことながら、父君が亡くなられたのは2000年2月21日、寂年八十六歳。母は九十歳で亡くなった。ひとつの家がこれで跡絶える。