書肆季節社の政田岑生さんにつづいて湯川書房の湯川成一さんが亡くなられた。政田さんが逝いたのが1994年6月29日、寂年58歳だった。叢書溶ける魚、水の梔子、火の雉子などは政田さんが編輯を担当し、湯川さんが装訂する。湯川さんと政田さんとは盟友にふさわしい親密な間柄だった。
湯川成一さんは一時期、数もの出版を試みた。76年以降の数年間がそれで、77年1月に季刊「湯川」が創刊されている。同誌に郡司正勝さんや十四次新思潮の面々が執筆しているのは私のいたずらである。湯川さんは加藤周一をはじめとする「進歩的文化人」が好きで多くの著書を出版している。私は彼らの毒気のなさが嫌で、ちょっとした異議申し立てをしたまでである。
出版社としての体裁を整えるために、元コーベブックスの川畑さんが湯川書房へ入社したのも76年末。吉行淳之介の著書などを担当し、隆さんの母親でもある。
湯川さんと政田さんの後を継ぐ形になったのが書肆山田と小沢書店。共に戦後の数もの出版のレベルを引き上げるのに尽力したと私は思っている。政田さんと違って、湯川さんは最後までアマチュアにこだわった。レイアウト用紙を用いない。新聞紙や週刊誌から文字を切り抜き、バラ打ちよろしく貼り付けたものを印刷会社へ持ち込む。晩年は京都と大阪をやめて、神戸の創文社と須川製本所を専らにしたが、それは同社の岡田巌さんと呼吸があったからに他ならない。
78年に私が交通事故で二百万の示談金を手にしたとき、湯川さんはそれを羨ましく思い、しばらくのあいだ交通事故、交通事故と呟いておられた。生憎と湯川さんが交通事故に合うことはなかった。湯川さんのところへ出版を志す若い方が来られた際、「ところで親御さんはいくつ山をお持ちですか」。これは湯川さんの口癖になったが、昭森社の森谷均さんを念頭に置いての話に違いない。
とにかくに私たちは金がなかった。当時は一点の限定本を造るに二、三百万の金が掛かった。私が土方をしたり、期限切れのドッグフードや破摧された古米で五年の歳月を過ごしたのも、すべては書物の制作費を捻出するためだった。湯川さんが経験なさった辛酸は私のそれをはるかに超えていたが、それは書くまい。書いたところで誰も信じないであろう。
光文社の古典新訳文庫は望月通陽さんの装画だが、彼がデビューしたのも湯川書房である。加藤周一詩集の箱を染めたのが最初で、「出埃及記」では彼の作品に塚本邦雄が短歌を添えている。齋藤磯雄が籠っておられた山中湖のペンション「モーツアルト」は望月さんのモーツアルトに関する作品が多く飾られている。湯川さん亡き後も湯川成一の精神的遺産のなかにわれわれはいる。(私自身、彼がいなければ出版に手を染めることはなかった。湯川さんについてはいずれ稿を改めたい)