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口籠りてはきとは聞こえず   一考   

 

 鈴木さんが来られた。もっとも、新店には既に何度もお見えになっている。鈴木さんのことは書きづらい。どうして書きづらいかというと、彼が話す内容のおそらく二、三割ほどしか聞き取られないからである。すこぶる論理的な方なのだが、酔っ払った振りをして口のなかでもぐもぐ言う。ひとつには私の耳が遠いせいもあるのだが、それ以上に彼は聞き取りにくく喋る。従って、私の応答は大半が生返事なのである。それを申し訳なくも思うが、他方それでよいとも思っている。どうしてよいかというと、互いの意思表示はできていると信じているからである。
 彼の喋り方には常に曖昧さがつきまとう。そのくぐもった様子を私は半分芝居ではないかと訝っている。何故そのような疑念を抱くかといえば、彼の喋り方はかつて近しく付き合ってきた話法であって、私の記憶に深く刻みつけられているからである。本音は別なところにあって、韜晦とまではいわないが、なんとなく世の中を暈かしていたい、そのような雰囲気が垣間見られるのである。
 彼のあやふやな物言いは隠れようのない素直さと衒いのなさを示唆している。それは団塊世代固有のものではないだろうか。照れくささ、羞ずかしさ、ぶざまさ、至らなさ、きまりの悪さ、面目なさ、気後れ等々、どういってもよいのだが、基部には存在そのものへのはじらいが横たわっている。きっと彼がそのような羞恥を示すのは仕事を離れたときだけなのだと思う。私もそうなのだが、仕事の場では人品が豹変する、要するに遣り手に化けるのである。化けると書いたが、どちらが化けているのかは定かでない。ひょっとしたら仕事をしているときも離れたときもどちらもが仮装であって芝居なのかもしれない。
 そもそも含羞があればこその酔いである。酔いとは実体をさらに不確かなものにしてゆく。それは避けるでもなく逃げるでもなく、ただ曖昧さのなかに自己を意図して拡散させてゆく。きっと彼は今とは違う自分を夢見たこともあったと思う。しかし考えるに、確かな自己ほど好い加減かつ如何わしいものもあるまい。ここまで書けば、あやふやと素直さとのある種デペイズマンな関わりがお分かりいただけようか。
 おそらく、はにかみやはじらいと縁のないひとに酔いは解るまい。酔いは決して心地好いものではない、しかしここちよげに振る舞わなければならないとの宿命を背負っている。彼の酔い方はその辺りの消息を十二分にわきまえている。
 一抹の投げ遣りもしくは捨てばちな態度の底辺には他者を愛おしむこころがいつも流れているように思う。飾り気のない彼の酔態は一種の苦い愛情表現とも受け取られるのである。彼のような淋しい酔い方をするひとは目に見えて減ってきた。いなくなったわけではないが、滅法寡なくなった。なんらの迷いなく酔いつぶれるひとは自己に酔いしれている。体力にまかせて酒を呷るように飲むひとは彼を見倣うべきである。私自身、一度店を離れて心ゆくまで彼と酒を酌み交わしたいと思っている。


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2008年06月25日 22:52に投稿された記事のページです。

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