昨夜ですぺらへ電話があって、「古本を扱っておられますか」「当方はショットバーです」「インターネットを見たのですが、同じ名前のバーと古本屋があるのですか」「私には分かりませんが、当方はショットバーです」「済みませんでした」との遣り取りがなされた。
なんとなく気になるので、「ですぺら古本」で検索してみた。辻潤がいくらでも出てくるし、店の客には古書好きが多い。面倒なので頭の二頁だけでやめてしまった。その一頁目に南輝子さんが書いておられた。題して「 神戸バンビひりひり」
http://home.kobe-u.com/lit-alumni/essey67.html
「ひりひり感覚」はともかく、「ロクサンにピッタリくっついていた」のは事実で、「いつもロクサン家にいて、いつも本を読んでいた」のも「毎夜酔っぱらって」いたのも事実である。その理由はロクサン家には書物があったからである。私にとっては「一宿一飯の恩義」どころではない。南さんが書かれたのは私が十代の頃のはなしだが、六十歳を出た今にしてなお金とは無縁である。預金通帳には一万円以上あったためしがない。預金がないものだから入出金の手数料を何時もふんだくられている。
文中、「三冊百円の文庫本」とあるが、私が買うのは文庫は十円、単行本は百円、そして田村書店の玄関には無料の本が山積みである。その値以上の書冊を購入するのは三年に一回二冊までと決めている。人が読む本を私は読まない。その理由は、人気筋は百円で売っていないからである。日夏耿之介から薄田泣菫、松永延造から野村隈畔、鈴木善太郎から山田一夫、そして野溝七生子などはかつては振り向く人などいなかった。だから百円で買えたのである。
その癖はいまも続いていて、ブックオフで誰も知らないであろう本を購っている。当然百円を超える本には見向きもしない。そのような本は図書館を利用する。問題は如何に読み解くかであって、なにを読むかは私の眼中にない。どのような書物にもなにかしら引っ掛かるところがあって、そこから私の物語がはじまる。読書とはその物語であって、夢見だと思っている。