削除するには淋しいものがあって、出だしを書き直してみる。
言葉は生き物であり、時代の風俗を担っていると書いた。同じように想像は個人の生活に基盤を置く。その想像力が私は逞しい。煙は大火に、煙のないところには煙草の煙でもよろしいから精一杯撒いてくる。時には火のないところに火種を、煙のないところには煙草の燃えさしを置くことすらある。勢い余って創作することも再三である。
奴のいうことは信用できない、のっけから割引して聞かないと間尺に合わない、思うに余談しかなくて為合がどこにもないなどとよく言われる。それらは一見正しく思われる。しかし、真実とか有用とか善悪などといった時代と添い寝するような概念を私はいかがわしいものと思っている。
ことごとくを疑って掛かる性癖は出自と関係するのかもしれない。子供の頃は生まれを理由に学校でよく虐められた。応じるに暴力をもってしたが、それだと偏見という名の社会全体を敵にまわすことになる。それでは躯がもたないので一計を案じた。それが書物であった。
社会全体を敵にまわしても書物の世界だと対応できる。それが私のいう想像であって解釈である。従って、私にとって文学はなによりもまず反社会であって反道徳である。文学で身を立てたい名を馳せたいなどという柔な輩は傍に寄らないほうがよいに決まっている。恋愛や友情に薄いのもそうした人倫に反する考えに則ってのことである。そして当然のことながら官学ふうをもっとも忌嫌っている。
一事が万事で、私にはなにが結構で、なにが悪しき作品かといった価値基準がない。「化鳥は鏡花がはじめて試みた口語体の小説で、少年の一人称による内的独白の形式をとっている」にしてからが、それが正しいかどうかは私の生半可な知識では解らない。当てずっぽうに書いたまでである。そして、「哄笑に彩られたとびきり淡麗な辛口文学」で触れたが、私は文学を学問だなどと思ったことは一度もない。
私の人生にあって、唯一縁がなかったのが学問である。職歴は三十を軽く超えるし、多くの現場を踏んできたが、勉学だけは常に避けてきた。誇大で華美な文辞を用いた駢儷体には興味があるが、勉励とか刻苦にはいささかの興味もないどころか逃げ出したくなる。学問や技術に精を出したい人は高校や大学へ行けばよろしいのであって、私は御免蒙る。
編輯者とはいえ、それが生業たりえたのは僅かに五年、いまはひょんな偶然で、飲み屋の親父を演じているが、人生の大半は自由労働者として過ごしてきた。自由といえば聴こえはいいが、あんこう、にこよん、土方、日雇いの類いで、私の制服は長らくにっかぽっかだった。さすがに老いてからは車の運転に従事。北海道がどうのこうのと宣巻くが、実体は身体があまりにつらいので免許を取得したまでである。
さて、新生ですぺらにも常連客がついたようである。酒はどんな無理をしてでも集めてくる。しかるに、店はいまだに勉強しない。これも勉強嫌いがなせる業か。