「大言海」の猫にまつわる大槻文彦と芥川龍之介との経緯の一端は「澄江堂雑記」に書かれている。しかし、澄江堂について書きたいのではない。澄江という人から「西九州文学」なる同人誌が送られてきた。澄江と書いてすみえと読む、氏は菊坂である。彼女との面識はない、従って履歴や人柄についてなにも知らない。ただ、作品を読めばおおよそのところは推測できる。これは詩についても同じことがいえる。一篇の詩だと対処に困惑させられることもあるが、一冊の詩集となれば調法は自在になる。それだけ、張りぼての舞台裏が透けて見えてくるのである。
(以下、簡略に突っ走る)思いを著す時、いくつかの問題が生じる。その思いがひとに伝えるに相応しいかどうか、思いが自分のなかで十二分に反芻、咀嚼されているかどうか。思いと自分とのあいだに必要な距離が保たれているかどうか。次に文章力の問題だが、これは美すなわち個人差が大きくかかわってくるので触れない。美の定義はいかなる手立てを用いても不可能だし、それに触れた瞬間からファシズムの讃美に陥ってしまう。同様に、固着した考えもファシズムの賞揚にしかならない。要は自信のなさ、定見のなさ、自らのふがいなさ、なんの役に立たない様などが文章を綴る折にもっとも求められるものである。文学とは髪のほつれのようなものと心している。
最後に、なぜ書かねばならないのか。多くの人はこのことを深く考えない。自らの人生のある側面を書きとめておきたいといった軽い気持から、あるいは人を啓蒙したいとの尊大な気持ちから書くような人もいる。他方、作家になりたいもしくは作家と呼ばれたいといった能転気かつお手軽なひとたちもいる。そうした人たちはひとが個であることを失念している。
書くという行為は「なぜ書かねばならないのか」ということを書き綴る、もしくは「なぜ書かねばならないのか」ということに躪り寄るためのいとなみだと思っている。先頃、知己がプルーストの翻訳を出したが、読むほどに、アルベルチーヌの浮沈も消息もさらに云えばストーリーすらがどうでもよくなってゆく。脳裏を去来するのは「なぜ書かねばならないのか」のひとことだった。ここで思うのはベケットにせよ、アルトーにせよ、根本は同じということである。
さて、「西九州文学」に掲載された菊坂澄江さんの一篇の小説、題して「長い季節」である。文章はこなれてい、書き慣れた雰囲気すら感じさせる。しかし、起承転結にこだわるあまり安易な結論を、それもハッピーな結末を据えたところに、この小説の破綻がある。結果として身辺小説の域を一歩も脱していない。書き手が実生活に充足していて小説は書かれない。さらに云えば、書き手は書くという行為を生きるのであって、実生活や実体験に対しては背を向けるしかない。言い換えれば、想像力という自らの妄想のなかをさ迷うしかないのである。今回の小説にしても、読者が求めるのは恋愛に於ける著者の内面的な葛藤だと思う。これだけはどうあっても書いておきたかったのであれば、何もいうまい。ただ、書き手の迷いが、揺れ動く精神が見えるような作品を次回は望みたい。
追記
「活字になったものなら読ませていただきたく思う」と書いた。それは誤字、脱字が極端に減るからに他ならない。雑誌に誤植が多い場合、それが理由で私は目を通さない。その点、「西九州文学」の校正はしっかりなされていた。
同人誌における合評会とは辛辣極まりないものである。作品の否定にとどまらず、人間性の全否定にまで及ぶことも屡々である。存在が存在を潰しにかかる、それが同人誌の唯一の取り柄であり利点だと思っている。