ガーリッシュなるファッション用語がいつごろから文芸に用いられるようになったのかは知らない。ただ出版社の標語なのであろうが、「志は高く心は狭く」の文言はすこぶる面白い。
自分の意識だけが実在し、他の自我やいっさいのものは、自我の意識のなかで存在するにすぎないとする独我論ないしは唯我論の薦めのように思われて仕方がない。シュティルナーやウィトゲンシュタインの主観的認識論のプロパガンダであろうか、蓋し名言である。「志は高く心は狭く」との標語は妄挙、妄執、褊狭といった言葉を想い起こさせる。
偏愛という言葉は修辞として用いるには面白いが、真面目に取り扱うようなものではない。偏愛はある種の開き直りの表明であって、もしそうでなければモノマニアを示唆するに止まる。澁澤氏が用いていたが、あのふてぶてしさがおそらく氏の唯一の魅力であった。
モダニスム、シュルレアリスム、構造主義等々、なんでもよろしいが、そうしたラベル貼りでしか文学は理解できない(という逆説のひとつも書きたくなる)。ファム=アンファンにしてからが、籌木のようなものがきらきら輝いてくるから不思議である。
江戸期、盲腸も結核も梅毒も死の病だったと思われる。「思われる」としたのはかかる病名が存在しなかったからである。在ったかもしれないが、なにぶん抗生物質のない時代である、照査したところで詮無いはなしである。病名のないところに病は存在しない、それが云いたいだけである。シュペルヴィエル風にいえば、ひとりの詩人が現れるまで、世界は沈黙していたとなる。