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林礼子さんと野溝七生子   一考   

 

 名古屋で人間社を営む高橋正義さんから「ぱうぜ」終刊号の寄贈にあずかった。昨年五月五日、肝硬変にて逝去された林礼子さんの追悼号である。
 「ぱうぜ」は音楽の休止符、ドイツ語で「ぱうぜ」と発音する。いとすこしの休憩の意で林さんは用いていた。二十年来書き続けた「作家」を退去し、発表の場を個人誌「ぱうぜ」に求めた。
 追悼号には「終焉の確認」「湯ヶ島 小さな文学室」そして「手紙の中から」と題する文章が収められている。「終焉の確認」には「昭和一桁生まれの私が青春時代に憬れた作家たちは、一部を除いて、ならして貧しかった。十代の私には、その貧しささえ憬れに値した。権力なんて無縁でいい。評価は低くて結構。必要以上の付き合いはしたくない。そのかわり親切で優しかったと言われたいなどと思ったりした」とある。
 肝硬変から癌に進んで三年を経て、なお生きながらえる彼女の矜持のようなものがせつせつと伝わってくる。全文を引用したいのだが、そうもいくまい。せめて、辻潤の箇所だけでもと思う。

 辻潤の貧乏振りはまたいちだんと凄まじかった。妻が大杉栄に走り揚句に虐殺されたことに、どれほど心を痛めたことだろう。私の知人である脇とよさんは、辻潤、無想庵などと同じ時代に生きた女性であったが、狂人のごとく乞食姿で現れ座敷に陣取る辻潤に困惑しながら、それでも酒をふるまい自分の食事を食べさせた人である。晩年のとよさんを老人施設に訪ねたおり、とよさんははにかむように私に尋ねた。「礼子さんは無想庵と辻潤とどちらが好きなの」と、そして私の答えを待たずして「私は辻さんの方が好き」と加えた。私はとよさんの穏やかな表情を見つめながら涙がでた。「辻さんは優しくて、頭もよくて才能もあった人だけれど、あまり貧乏すぎたのよ」と、とよさんは辻潤をどこまでも弁護した。辻潤の死因は餓死であった。アパートの部屋でたった独りで死去した。びっしりとついていた虱さえも、死体となった辻を見捨ててゾロゾロと離れていったのだと聞いた。それでも辻はその貧しさの中で作品をたくさん生み出している。

 林さんは「虚無思想研究」第十一号へ「辻潤と野溝七生子—辻潤没後五十年に寄せて—」を寄稿している。そう、林さんといえば、野溝七生子や辻潤を繙く者にとって、馴染みの作家である。野溝七生子の姪御さんで、著書に「希臘の独り子──私にとっての野溝七生子」がある。「希臘の独り子」とは「山梔」の由布阿字子が自らにつけた名前である。矢川澄子にとっての野溝七生子が「ヌマ叔母さん」なら林さんのそれは「ナア叔母様」だった。
 高橋正義さんが朝日新聞へ追悼文を掲げている。

 個人の思いが強ければ強いほど、世間との折り合いが困難となるのは常だが、林さんもその一人だったのだろう。常々「生きにくさ」を自覚していた林さんは、「そういうときは一切合切を棄て、もう一度生き直す」ことを信条としていた。「野溝の血を書く」と語っていた言葉は、イコール「生きにくさ」を書くことでもあった。世間智に長けていない者ゆえに身につけた処世の術を、作品に登場させる「私」に込めて書き続けた。品性を失わなければ敢然と立ち向かっていけると書けば書くほど、立ち向かうことの孤絶もまた浮き彫りになるようだった。

 「十代の頃から長い間自殺志願者だった私」すなわち林さんの生死が透けてみえるような文章である。今回、その高橋正義さんのご協力を得て、私家版で上梓された「希臘の独り子──私にとっての野溝七生子」を五部ほど店に取り置くことになった。野溝七生子に、そして林礼子に興味をお持ちの方はですぺらへどうぞ。

追記
 林礼子さんの晩年は不遇だった。社会福祉や戦争資料館開設などに奔走するも中途で手を引き、作品集の出版すらが平成元年で跡絶える。そうした頓挫の繰り返しは自ら招いたもの、個として生きるとは真面目な煩悶に身を曝すことに他ならない。世間を狭めて生きた一人の作家の夢中の呻吟が聴こえてくる。野溝七生子から尾崎翠、吉屋信子、森茉莉、矢川澄子といったガーリッシュな私小説の系譜がここにもある。
 他に「セシリアの笛」(昭和五十八年二月 作家社刊)、「名古屋今池界隈」(昭和五十八年二月 鳥影社)あり。「希臘の独り子」は昭和六十年十二月に林礼子出版事務局から刊行された。
 昭和八年一月十六日生れ、母の名は澄子。野溝家は豊後竹田(大分)の旧家で、軍人の父のもとで七番目に生れたのが七生子、五番目の男子のもとに生れたのが林礼子さんです。戸籍名は山崎禮子。
 若くして多くの文士と親交を持ち、平塚らいてうを知ったのも「ナア叔母様」の紹介になる。「紅爐」を主宰した島岡明子さんとは特に近しく、辻潤に関するエッセイをまとめた「孤影の人」の著者、脇とよさんとも行き来があった。平成六年、今池の酒場「ぱうぜ」で催された「ダダイスト辻潤展」は彼女の尽力によるもの。


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2008年05月20日 22:23に投稿された記事のページです。

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