父の死後、実家は家族に譲った。譲らなければならない切羽詰まった事情があった。従って、帰るところはどこにもない。どこにもないどころか、帰ってはならないわけがある。その理由はここでは著せない。私にもいささかの秘め事はある、生きていればこその醜いあらがいに身をさらしている。
もっとも、私自身どう考えても帰る用もない。ないと書けば母に合わせる顔がない。惚けを言訳に施設へ放り込んであとは知らぬ顔、爾来十年近く会っていない。そして、父の墓参も一度として果していない。果していないどころか、実は墓の在所すら知らない。ことここに至っては、このまま逃げを決めこむしか手立てはない。自らを人外というのは掛け値なしのはなしである。ひどい子を持ったと親には諦めてもらうしかない。
震災で神戸の行きつけの飲み屋はことごとくが瓦解、三重へ広島へ宮崎へ鹿児島へと大方は生まれ故郷へ戻って行った。明石の知己も焼肉屋とショットバーを営む僅かふたりを除いて他は散り散りになった。企業城下町での商売は親方が倒けると成り立たなくなる。それと比して東京なら不特定のひとを相手になんとかやっていける。それと管理会社のおかげで、神戸や明石より家賃の安い店舗を見付けることができた。当座はここにしがみつくしかない。
赤坂でバーテン仲間はできた。しかし、赤坂への帰属意識など抱きようもない。かつて新しい街への陣痛の渦中だった福原で少年期を過ごした。花柳界の乾枯した殻を蝉脱せんとする息吹と言えば聞こえはよいが、それは単に色街の「色」の企業化に過ぎなかった。街への思いはひとへの思いと重なり合う、それを風情という。そしてひとが去ったとき、街は冷たく色褪せたものになる。街が光彩をなくしたとき、それは私が福原を去るときだった。思い返せば、あの折に神戸との訣別は済ませた。福原を私は熱海のような街と思っている。熱海は赤坂に先行する滅びへの途を着実に歩みはじめた街である。
それやこれやで、誘われはするもののコミュニティには属していない。東京のどこに住んでいても、新宿というアンダーグラウンドが私にはまとわりついている。泥酔が許される街は新宿を除いて他にはない。
私には接客ができない。ただ、酒のはなしならできる。それでモルト・ウィスキーの専門店を営んでいる。他に理由はない。そこのところを幹郎さんは巧く書いてくださった。あと一週間ほどで「嗜み」が上梓される。幹郎さんには感謝のしようもない。気が弱くて小心で、それを隠すための刃傷沙汰だった。幹郎さんの筆はそんなところにも及んでいる。シャイは複数形で邪意となりセンチは浅知と同音である。過去、為してきたことはいくらかある、ただ、為してきたことと出来ることとは別ものである。私にできることはなんだろうかと、この歳になってなお迷い続ける。
このところ、拙宅の此処彼処に花が咲く。玄関にはぼんぼりのような菊の花が双輪、淡い浅黄の供花と聞くが詳細は審らかとしない。いずこの線香花火より、いやさ仕掛け花火よりも一段と艶やかに咲いている。