「棒立ちのような現代の詩歌」と書いたが、これも佐々木幹郎さんからの孫引きである。棒立ちか棒裁ちかは分からないが、いくらなんでも衽裁ちでははなしが合わない。これは棒立ちに違いない。ところで、話というものは勝手なもので、私はその「棒立ち」を棒のように意味なく突っ立っている、と解釈していた。ところが辞書によると「馬などが前脚を浮かせて棒のように立つこと。また、驚きや恐れでつっ立ったままでいること」と著されている。これでは意味合いがまるで違ってくる。
はなしの内容は、音数律を用いているものの、表現のねらいが判然としない。もしくは五七調と七五調の違いすら汲み取られていない(棒立ちのような)作品ではなかったかと。幹郎さんには申し訳ないが、これも私の勝手な解釈である。いっそ「棒あきない」か「棒上げ」の方が一本調子で通りがよかったかとも思う。
要するに、しかるべき研究機関や大学のようなところと縁のない私はいつもこのような間違いを為出かす。もっとも、これでまた幹郎さんとのはなしのネタができたわけだが。
棒が滅亡の亡であろうが、耐乏の乏であろうが、妄言の妄であろうが、芒洋の芒であろうが、風来坊の坊であろうが、忘却の忘であろうが、茅屋の茅であろうが、閨房の房であろうが、茫漠の茫であろうが、昴星の昴であろうが、冒涜の冒であろうが、解剖の剖であろうが、旁若の旁であろうが、既望の望であろうが、眸子の眸であろうが、容貌の貌であろうが、無謀の謀であろうが、誹謗の謗であろうが、なんだって構わない。暮雨はやがて闇と溶け合い、そして漆黒のなかへ消え去ってゆく。