昨日は雨天で店は暇だった。その代わりと言っては失礼だが、佐々木幹郎さんと一夜閑談の会に浴した。話題は「かりのそらね」。アナロジーの極致とも言うべき入沢康夫の「かりのそらね」については、高遠弘美さんが執拗かつ綢繆なエッセイを書かれている。詳しくはそちらを読んでいただきたい。否、必ずや繙かれたい。
棒立ちのような現代の詩歌にあって聳つ作品というのは寡ない。山と積まれた書物のなかからそれを探し出すのは難儀である。真砂子のなかから一粒の貴石を索すに等しい労苦を伴う。質硬く色沢美しく屈折率の大きな作品というものは、おそらく十年、二十年に一冊しか生れない。「かりのそらね」と「わが出雲・わが鎮魂」はそうした詩集である。ここでは「かりのそらね」と一対になる「わが出雲・わが鎮魂」について触れたい。
「わが親友の魂 血も凍るおもい 両のてのひらに そっとすくい上げた」詩集が手元にないのでうろ覚えだが、小学校時代の友の魂を追いかけてゆく、その魂は土地の霊となって・・・といった内容の詩集だった。その前の方の頁に鏡文字が出てくる。鏡文字とは一種のトロンプ‐ルイユで、鏡を介して通常の文字となる。幹郎さんによると、生徒にこの詩のよさを教えようとして鏡を書物の前に立てかけたと覚しい。その時、予期せぬことが起こった。左右が反転した文字のなかに自分の顔が立ち顕れたというのである。友の魂とは他ならぬ個々の読者自身であって、霊とは虚無そのものだったと幹郎さんは言う。
入沢さんはどうやらそこまでは計算していなかったらしい。それにしても、読書の怖ろしさを読み解く幹郎さんの眼力は見事である。佐々木幹郎、そして高遠弘美、入沢さんはよい読者に恵まれた。