「おそらく最後の世代になるのではないかと思っている」と書いた。季節の変化を反覆しつつ月日は容赦なく推移してゆく。ことは内燃機関に止まらない、二十年後に姿を消すのは書店であり、出版社であり、書物そのものだろうと思う。ローカルなはなしで恐縮だが、一月十四日に神戸の後藤書店が店仕舞した。黒木書店主は下戸だったが、後藤書店の親父とは飲みに行ったことがある。そしてはなしは古書店にとどまらない、コーベブックス、コーベブックスの常務だった村田耕平さんが営む三宮ブックス、丸善、流泉書店、漢口堂、日東館、宝文館等々が次々と姿を消していった。そういえば、コーベブックスの北風一雄さんの息子さんが営んでいた南天荘書店も閉店した。昔、ジュンク堂の三宮出店に最初に賛意を示したのは他ならぬ北風一雄さんと村田耕平さんだった。結果、自らの首をしめることになったのか、それとも早晩訪れるであろう滅びに身を涵していたのか。個性が売りの書店は三月書房のごとく、個人商店でなければならぬ。そのジュンク堂だが、今際の綴じ目にとどめし徒花のようなものと思っている。
繰り返すが、書物はやがて姿を消す。私はよい季節に本を造ったと思う。印刷の、手漉和紙の、装訂材料の現状を顧みるに、七〇年代が間違いなく最後の機会だった。その折の残滓で九一年に最後の限定本を造った。爾来、装訂の機会はあっても著者と折り合いがつかず、そのまま投げ出している。八〇年代以降、湯川成一さんが拵える書物を除くと鑑賞に堪えるものはほとんどない。表装を取り繕ってはいるものの、書物としての体を成していない。所詮はマスプロであって、気配りというか、本への情愛がなにひとつ感じられない。
昔、書物というメディアがあって、かように重く不便なものを慈しむような奇妙な人々がいたらしい、と取沙汰される日は近い。