地域社会の歴史を考究し、それが一国の歴史、世界の歴史の変遷とどのように絡みあうかを明らかにし、地域社会が当面する諸問題についての理解を深める。要するに、郷土史の研究の多くはそれぞれの地域の書店や古書店もしくは図書館などによって支えられてきた。この消息を言い換えれば、新古を問わずそれだけの自負を持って書店主は経営に携ってきたということになろうか。そのプライドがわざわいして、一部の書店は漫画のようなサブカルチャーを否定しつづけてきた。結果、消費者の支持を失って衰退して行く。謂わば、郷土史というサブカルチャーがもう一方のサブカルチャーを、もしくは漫画というサブカルチャーが郷土史というサブカルチャーを否認したのである。
われわれの世代にあって、サブカルチャーは何よりもまず商業主義や権力装置に対して挑戦的かつ挑発的であった。それがゆえに、アンダーグラウンドたらざるを得ない。それはソンタグのいう「極めて深い悲痛感と危機感」を伴うものであった。サブカルチャーは全体的な文化(トータルカルチャー)あるいは主要な文化(メインカルチャー)に対比される概念である。その対比にわれわれは目線の移動を持って応じた。例えば人生の漂流者としての荷風であり、圏外文学としての鏡花の類いである。解釈ひとつでメインカルチャーをすらサブカルチャーに歪めてきたといえようか。さらには、石井隆から片山健に至るカウンター、あるいはアドバーサリーな文化のなかにわれわれは深く身を置いてきた。
昔、売れる本はよい本だといわれてきたが、その伝でいけば、ケータイ小説や漫画は金になる素晴らしい商品なのである。それをいまさら敵対的文化と呼ぶひとはいまい。謂わばサブカルチャーがサブでなくなり、商業主義の一見本として大手をふって跋扈するようになった。そしてそれを扶け、大衆に媚び諛うのが大型書店である。私は個人至上主義的な共同体感覚に基盤を置く三月書房のような本屋を好ましく思う。望むべくもないことだが。