まだ詳らかにできないが、某社より新しい雑誌が刊行される。そのなかで佐々木幹郎さんがですぺらを紹介してくださる。発売は三月だが、取材は十四日に済ませた。取材の一環で、六十年代、七十年代のアードベッグと三十年ものなど多数のモルト・ウィスキーが試飲された。
珍しく同じ世代のひとたちの集いとなり、語らいは弾んだ。ひとは若いままに老いる、歳が行ったとの自覚などどこにもない。そのくせ他人をつかまえてはオジン、オバンと言いたい放題である。「記憶はせつないほど懐かしい、はじめてめぐり会った遠い遠い時の爽やかさのままにある」とはそのあたりの消息を指す。
それにしても、と思う。かつてわれわれが若かったころ、例えば曽根さんや種村さんと知り合ったころの彼等の遇し方、さらには生島さんや耕衣さんの年少者への接し方を顧みるに、われわれにあの寛容さ、キャパシティがあるのだろうかと疑問に思う。確かにとちったときの竹箆は怖かったが、咎はこちらにある。精神の進歩とか進化といった不用意な言葉を発しない限り、向こうから首をチョンと斬られることはなかった。
幾人かは教師であったにもかかわらず、わが邦の歴史教育のプロパガンダについて声高に話された。歴史観そのものの相対化、すなわち世界観の相対化を教わると同時に、個別の事柄についてそれは大事です、それはどうでもよろしい、と噛み含めるように諭される。「いまどきの若いものは」という前に「いまどきの大人は」と自らの足もとの検証に彼等は余念がなかった。