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色は匂へど   一考   

 

 店のパソコンはネットに繋いでいない。しかし、辞書は積んでいる。辞書で諸行無常を引き、いろは歌が出てきた。面白いので引用する。
 諸行無常は(色は匂へど散りぬるを)、是生滅法は(我が世たれぞ常ならむ)、生滅滅已は(有為の奥山今日越えて)、寂滅為楽は(浅き夢見じ酔ひもせず)となる。
 諸行無常とは三法印の一であると同時に念仏の大事を説く、ここにもアナロジーがある。法則と概念を重んじれば、さまざまな法則と概念は同化してゆく。この同化という言葉を類推の意で用いている。法則や概念は変わりにくいが、自らが変わることによって概念の色合いは自在に変わる。言い換えれば、解釈ひとつでどのようにもなる。
 言うまでもないが、諸行無常は諦観ではない。諸行無常が諦観になった理由は上述のいろは歌にある。繰り返すが、諸行無常は恒常的な世界の否定ではなく、むしろ、変化し生滅してとどまらない世界を積極的に捉えた言葉である。いろは歌では困る。なぜなら無常が、日々消え去ってゆく過去への咏嘆としてのみ捉えられるからである。つまり、諦観は諦感に、諸行無常は諸行無情になってしまう。
 かつて部派仏教について書いたが、「つくられたもの」と「つくられないもの」とを峻別し、無常の構造を縦横に考究しなければならない。ここでの考究とは「諸行」そのものへの問い掛けを意味する。
 もはやない過去といまだない未来との狭間に今があり、とは屡々言われることだが、だからこそ「今」は刻々変化し、さまざまな相貌をひとに招来する。ひとはその対応に追われる。対応に追われるとは、個々の生滅を自ら解析し消化し、そして昇華させるに他ならない。耕衣句の「少年や六十年後の春のごとし」にはその昇華すなわち抽象化の過程がつぶさに描かれている。
 そして問いは繰り返されなければならない。繰り返しのなかにこそ実証主義がある、コモン・センスがある。万古不易という概念がもしあるとすれば、その問い掛け自体を指す。


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2007年12月04日 15:43に投稿された記事のページです。

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