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悪のすすめ   一考   

 

 贔屓のたばこはアーク・ロイヤル、パイプたばこの紙巻きである。フレーバが気に入っているからだが、それ故に人前では呑まない。葉巻同様、自己主張を嫌がるひとがいるからである。従って、人前ではどこにでもある癖のないたばこを嗜んでいる。マールボロ、ラッキーストライク、キャスター、マイルドセブンなんでもござれである。くわえたばこを賤しむのと共に他者に対するささやかな気配りである。本数を数えて呑むことはない。日々の体調に即して30本から60本位であろうか。話序でに、尾崎紅葉に「煙霞療養」との名著があるのを大書しておきたいと思う。

 文学が消滅という名の錦の御旗を降ろしてから久しい。昨今のエンターテインメント一色のなかにあって、懐疑や弁証と言ったヴィヴィッドな感性は疎んじられ、作品の背後からにじみ出てくる曖昧なもの、目に見えないメタフィジックなものは顧みられなくなった。
 ひとはやがて死ぬとの事実としかるに今ここに在るとの事実、あきらめとやるせなさとが行き交うなか、ひとはあらがい立ち徘徊る。その切なく空しい地下水脈を旅するときの莫逆の友が酒であり、たばこであり、薬物ではなかったか。 
 原水爆がひょっとしてひとを死滅に向かわせるかもしれない最強の玩具だとするならば、酒や煙草はひとの健康を脅かす最古の玩具でありこころ疚しい友と言えようか。「玩具」や「友」を「悪」に置き換えていただければ結構。例えば、なにかに突き当たったときにあいつが悪いとか社会がわるいとか、他に責任を擦り付けるのが子供だとするならば、自分自身のなかの悪に思いを至すのが大人ということになりましょうか。思惟するとはその「悪」に逢着せんがための働き掛けであり道すじなのです。問われるのはたばこではなく、同じひとである喫煙者なのです。喫煙者のモラルのなさに託けてルールを拵え、たばこを閉め出すのは本末転倒かと。
 自己と他者とのさまざまな不協和のなかに、ある均衡点としての交点を見出すための模索が思考であり伝達ではなかろうかと思う。言い換えれば、その恣意的な交信こそが知性だと思うのです。私見は相手の意見を引き出すための仮定であり、対話はおおかたが仮定法で進められます。過程を端折っての罰金つき路上禁煙条例がもしかして官吏の悪意から生じたものならご立派、いわんや千代田区を人類存在のメモリアルパークと化すのが目的ならわたしも協力を惜しまないのですが。
 健康に留意し、長命を念じるのはひとの勝手。さればこそ、こころならずも密咒を呟き、はからずも白鳥の歌を刻み、若くして逝った多くの先達をわれわれは識っている。花のない文学など毒にも薬にもならない。いつの世にあっても、花とはいちずに呪われたものであり、すぐれて不誠実なものである。酒と煙草と薬物は文学には欠かせない調味料。知性に付帯する死臭漂う友であり、時として花をも装う食わせ者、身持ちのわるさは持ち前の身上であろう。滅びの認知に文学があるのではなく、滅びにいかにあらがうかに文学がある。「悪」を相手の駈引きに我を忘れ、傷付き、見喪い、欺瞞の渦中に自己が四分五裂してゆく。こなごなに砕けてしまってよろしいではありませんか。消滅との主旋律をなおざりにして尊厳などあろう筈もないのですから。


 十七日、終日にわたってですぺらの転居をまなさんに手伝っていただいた。雑俳に「てきはきと嫁はそばから杖を出し」とあるが、彼女の手際のよさにはいつも見蕩れてしまう。いまもっとも必要とする友であり、感謝に堪えないでいる。車中、どうして烟草を喫むのかと訊かれた。上記文章がその応えになるかどうか心許ないが、私にとっては唯一のたばこ礼讃である。ご参考に供したく思う。
 二〇〇二年十月に東京都千代田区で施行された罰則付きの歩きたばこ禁止条例に対して郡淳一郎さんから意見を求められた。その折にユリイカへ投稿したものである。字句に若干の修正を施した。


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2007年06月18日 06:37に投稿された記事のページです。

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