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アナロジー   一考   

 

 才能がないと言われて立腹なさるひとがいることに愕かされた。才能の持ち合わせなど、なんぴとにもない筈なのだが。腹を立てるのは自らの才能を信ずればこその反応である。ならば、才能についていかなる意見をお持ちなのか伺いたく思う。
 ここまで書いて「閉店サービス3」は捨て置かれた。しかし、ひとに意見を求めるときは自らの意見を事前に開示しなければならぬ。以下は才能に対する私見である。

 才能は実績である。そして、実績とは他者がへだたりなく認めるところのものである。よって、才能という言葉を若いひとに対して用いるのは礼を逸することになる。素質や素地といった方がふさわしく思われるが、実態は決して先天的なものではない。また、稽古とか修行という言葉ほど虚しいものもあるまい。本を読んだからといって身に付くものでなく、量を書いたからといって旨くなるものでもない。肝要な部分は偶然に委ねられている。
 子供の頃、言葉を覚えはじめるときに駆使されるのは類推である。というよりは、類推があってこそ言語の修得が可能になる。もっとも、類推の結論は蓋然的であって、必ずしも頼りになる推論方法ではない。しかし、書物を読んで得るものなど、決定が各人にゆだねられている主観的確率を一歩も出るものでない。読書家はその蓋然性に賭けるしかないのである。
 才能といった場合、一般的には素質や能力を指すことが多い。前者に私は否定的な見解を持っている。そして後者の「能力」が類推に相応するのではないかと思っている。類推は知識を拡張したり、形成する推論であり、隠喩の理解や生成を底辺で支えている。
 演繹的推理や帰納的推理と違って、類推は一足飛びに知と知のあいだを駈けめぐり結びつける。「オタマジャクシに手脚が生え、尾がなくなって蛙になったり、芋虫が蛹となり、さらに繭を破って蝶になったりするのが生物学上のメタモルフォーシスであり、それら自然界の法則を空想の世界で一挙に実現させてみせるのが文学です」と「みせびらきの詞」で書いた。その変身を事もなげにやってのける想像力の核に類推があると思う。
 「存在の類比」を持ち出すまでもなく、人間の認識能力はすべての存在するものにたいして開かれている。その認識能力、類推能力を高めることが疎かになれば文学が文学でなくなってしまう。言葉を覚えはじめた頃にひとは常に立ち帰らなければならない。


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2007年06月18日 06:26に投稿された記事のページです。

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