閉店が決まったので、書きたいことを書いている。キルケゴールの人生行路かボヤキの人生航路か、そんなことは一向に構わない。相方という重しがなくなったがゆえの魚説法(舌鋒)である。
ですぺらは引き裂かれていた。チョイスを楽しまれる客と自称文化好きのふたつのグループに分離されていたように思う。分離どころか乖離していたようにすら思う。その結合点がモルトウィスキーであった筈なのだが、まったく機能しなかった。
プロの書き手はごく少数を除いて、モルトウィスキーに興味を持たれ深入りなさった。問題は芸能レポーターのような意見を書物に対して抱いているアマチュアの方々である。昔は文壇雀と言っていたが、それを私は新時代に相応しく舌禍の一群と名付けた。僅か四、五人にすぎないが、喧しいばかりで中身はなにもない。第一に本なんぞ、なにも読んでいないではないか。素人衆のなかで一頭地を抜くからと言って、なんぼのもんじゃいと言いたくなる。
編集者はコミケにも出入りしているし、これというブログにも目を光らせている。全国区の雑誌から原稿依頼がないのは書く内容の陳腐さを証明している。そして、なにも書かないひとはなにも読んでいないに等しい。前項で記したように、文学コンプレックスに陥るのは本人の勝手だが、人前でマスを掻き浅薄な知識を排泄するなど愚の骨頂である。恥じを知れと言いたくなる。
明石の店には教師から警察官、ライダーから空手家、中年のアベックから女子大生、独逸文学者、英文学者、俳人、歌人、詩人、書家、絵描きとじつに多彩なひとびとが集っていた。そして話題は常に酒と魚介類を中心とする肴だった。バーというものは、店主が単数であれば引き裂かれるようなことなどあってはならない。ところが、赤坂では放逸無慚な為体であった。
一ッ木通りの店はこのままで押し通す。しかし、同じ轍は踏むまい。況して次の店はキャパシティが半分になる。我(が)にとらわれない「偏食家」でない方のみご来店いただきたいと冀求している。