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断碑   一考   

 

 相手がなんぴとであれ、またそれが義務であれ権利であれ、なにごとによらず強いるのはよろしくない。力関係を無力にしなければ個は成立しない。力関係を無力にするとは集団や類型の拒否である。そして、書き物は個のはかなごとであって、結社や同人に属するひとは文学とはついに無縁である。
 すぐれた表現者は個として存立するが、そのファンクラブが結社や同人を構成する。言い換えれば、寺銭を払って創始者の権威や権力におもねているだけである。そのような有象無象を相手にする時間は同じ結社もしくは同人の他、なんぴとにも与えられていない。

 個の成立がみずからの意見や考えを披陳することだと思うなら、とんでもない思い違いをしている。
 披陳にあっては常に意見が意見としての体をなさず、考えが考えとしての纏まりを欠く。店での経験なのだが、彼等が披陳する知識にはもっとも大事な読み解くという行為が含まれていない。「私も若い頃はずいぶんと本を読んだものだが」との言葉に示唆されるように、読書家の多くは一季半季の徒である。
 披陳でことが片づくのなら著すとの行為はなにを意味するのか、ちょいと考えれば済むことである。
 幹郎さんはそのあたりの消息を文学コンプレックスと名付けている。そして、私は精神分析医ではない、強い情緒的反応を押しつけられても傍迷惑なだけである。ですぺらの勘定にはそれに該当するサービス料は加算されていない。困ったちゃんにはご退場いただくしかない。
 繰り返す。書物やその意味内容は著すものであって、喋るものではない。書くとの行為のなかには反芻があるが、お喋りは無責任な排泄でしかない。この消息は活字とウエブサイトの関係と類似する。
 駄洒落なら知らず、思いつきで喋るひとは無知曚昧に過ぎない。そして、お喋りとは思いつきでしかない。さらに、読み散乱した書冊から得た知識の断片を肴にしようとするなら、それは酒への冒涜になる。とは言え、お喋りほど安酒を飲む。文学という我(が)にとらわれた意識が他の知識(この場合は酒)をないがしろにする。前述の「無知」とはこのことである。

 読書はある日とつぜんにはじまり、そして突然に打ち切られる。従って、知識はどこまで行こうが生半可なものである。それを整理整頓するためにひとは文章を綴る、さらなる混乱が待ち受けているのを知らずに。
 他方、乱れはひとつのバランスであり、ひとは不必要なものに囲まれて生きている。必要なものなど、どこにもないと言ったほうが実体に近い。
 ひとは新陳代謝であり、存在することになんらの意味も意義もないと、掲示板で書き継いできた。恋愛とか子育てなどは仮装ないしは仮想の最たるものであろう。
 舞踊にためという言葉があるが、こころに思うことと書き表すまでの距離がこの「ため」に相当する。披陳は論外として、著すためには思案しなければならない。その時間差、謂わば「ため」の内側から畏れが湧いてくる。
 書けば書くほどに、書き込めば書き込むほどに、先達への畏れは助長され深化し、傷口は拡げられてゆく。要するに、力関係と畏れとはまったくの別物なのである。
 畏れはつねに相対するひとの智力に向けられている。智力とははたらきであり行為であって、静止したものではない。然様ならば、みずからも揺れ動いていなければ畏れを抱くことはかなわない。畏れを解さないひとは文学とはついに無縁である。プロの書き手と対峙するときは命懸けでなければならない。

 で、プロとアマとのあいだに境界線は存在しない。しかし、その見極めの目をあなたは既に持っている。この場合のあなたとはTさんである。ですぺらにはTさんが多く、匿名性が高いので便利である。沈思黙考の若者とでも言っておこうか。
 先日、久しぶりにそのTさんがやってきた。沙石集に「ヨシナキ世間ノ文字ヨミテ、妄慮ヲマサムヨリハ、同ハ経巻ヲミルベシ」とあるが、意味する「真実の言葉」すら私は信じられないで困惑している。
 さて、これで繰言になったかしら。


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2007年05月29日 10:29に投稿された記事のページです。

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