幹郎さんから繰言を書けば物数奇が現れるかも、とのご教示を得た。「蓼食ふ虫は不物好きの謗となれり」の意であって、言い出したのはホワイエのマスターである。
先日高遠さんと入れ違いにその佐山さんが来店。一考はちょい悪ではなく大悪(おおわる)であって、正真の不良である。そのような男には必ずやコアな物好きが現れるものである。逃げられたからと言って落ち込む要はない、連れ添いはすぐに見つかる、との声援を残して立ち去った。この手の励ましは嘘であっても嬉しいもので、ひとをその気にさせるから不思議である。
泣き言や甘言で女を釣っては沽券にかかわるなどと言っているあいだは未熟で、五十路を超えるとと見境がなくなるらしい。もっとも、私にはのっけから分別の持ち合わせがない。従って、物心がついてから地上ことごとくの女性が眷顧の対象になっている。自信があるわけではない、自信喪失がもたらす博愛なのである。犬も歩けばなんとやらを想定していただきたい。
ただし、なにごとにも例外はあるもので、私でなくっちゃあといった「私」に憑かれたひとだけはご遠慮いただいている。その理由は連れ添いになる当方にも「私」を拵えることが強いられるからである。
とまあ、こんなことを書いているあいだは誰からも相手にされないのは必定、幹郎さんの忠告を受け容れるのが重宝というものである。しかし、肝腎の泣き言の書き方が私には判らない。私はマゾヒストなので螺子を巻かれるのは好きなのだが、どこがしどけなくだらけているのかは、いまもって見当すらつかない。判然としないものを書き綴るのは至難である。そして、ぼやきは笑いを誘うが愚痴は同情を強いる。この「強いる」との文言が気に入らない。