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訣れ   一考   

 

 引越が済み、相方は神戸へ去って過去となった。ブリッケなごたくさは流れ、ふたたび彼女と見えることはない。ブロイエルの療法を擬えたのはフロイトだが、彼のエディプス・コンプレックスへの解釈に私は組みしない。さらなる幼年期に素因があると思っているからである。それ以上、是々のごたくさや顛末の解析の要はなく、委しく話す必要もない。万象は徒に流れ去るのみである。
 伊勢集には徒寝を含む数首が選されている。だからと言って引用する気はない。ひとの言葉に自らの思いを託さないのが私の作法である。で、ひとりになるのは慣れているはずなのだが、何度経験しても淋しい。読書百遍而義自見と言うが、恋愛の意味内容だけは未だにかいもく見当がつかない。抱月や辻潤によると、廓寥を捨て置くとひとはますますデスペレートになってゆくらしい。それを避けようとして、このところ同居アドレナリンが上がりっぱなしである。
 前述したように、恨みつらみを述べ立ててもなにもはじまらない。喋るほどに自らがばかばかしく思われるだけである。そういうときは酒を飲むにかぎる。ところが、移動手段が車なので新宿へは飲みに行かれない。慣れるのに二、三週間は掛かるであろう家での独酌から切なさを払拭する手立てはないものか、そこから生じる同居アドレナリンなのである。
 恋愛にはいささかの執心もない。執着というよりは、恋愛そのものに未練未酌がないといったほうが正しい。恋愛結婚という概念を持ち込んだのは団塊の世代だが、自己開示や相互依存的な関係に重きを置く世代ならではの愚挙でなかったかと私は思っている。
 ただ、生きている以上、ひとには生活が待ち受けている。この生活と恋愛との関係はパトスとロゴスとの関係同様、おそろしく未分化なまま捨て置かれている。趣味を自らの人格の表明手段と思っているようなひとが情念を否定するなど、あってはならないことである。その心得違いは読み解く必要がある。

 「二人暮らしたアパートを 一人一人で出て行くの」との唄があった。ひとりだけ取り残されるから嘆かわしいのであって、共にあらぬ方へ遁走すればよいのである。あらぬと言えばアラヌスを想い起こす。ダンテの「神曲」誕生の素とされる「アンティクラウディアヌス」の作者である。そのようなことをなぜに書くかと言えば、遁走に先立って書物をはじめとする玩具を処分しなければならないからである。私の身の回りにはものが多すぎる。かつての蒐書は散書に切り替えなければならない。アラヌスを再評価したクルツィウスやベンヤミンの他、四、五十冊の詩歌集があれば余生には充分である。玩具ことごとくの処分の決心がやっとついた。


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2007年05月17日 19:26に投稿された記事のページです。

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