霧雨のなかを帰る。霧雨とは申せ、オートバイではびしょ濡れになる。昨日の客はわたしの好きな二人連れ、ウイスキーを12杯飲んで帰られた。好きなというのは、幹郎さんの「スコットランド酔夢紀行」を読まれているからである。
このところ暇である、よって知己とメールでお喋りをしている。もっとも変わりにくいもの、それは性愛だと、常日頃から述べている。その生と性愛について語り合っている。
ひとは極力多くのひとと関わりを持つべきでないだろうか。異なる文化の多様性に触れてはじめて、ひとは解体し、理解し合える。偏狭な排外主義や差別思想、要するにレイシストを知己は否定する。同様に、限りない自己解体を知己は自らに課している。つまり、理解そのものをも否定してやまない。
知己のあまりにも強烈なニヒリズムには手を焼いている。手を焼くのでなく叶わないのである。まるで、モンス・デジデリオの申し子のようなひとである。わたしは生き延びる途を選択してしまってから、大きなことはなにひとつ云えなくなってしまった。そろそろ別れの季節がきたのだろうか。