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演繹的自死の薦め   一考   

 

 書きたくないことだが、身の周りに認知症患者が出た。年が行けば自分も引っくるめて何時かはやってくる事態である。分かっているが、そのための対処法は考えていない。
 生前に発症するかどうかの違いだけで、ひとは例外なく認知症になる。発症してしまえば腎不全同様、非可逆的な病であって、現在の医学ではその段階で既に手遅れである。

 認知発達があれば、認知退行があってもおかしくない。認知発達とは人間の知識や知覚,記憶,学習などの認知機構の起源と変遷を探る領域だが、その変遷の到達点に認知退行があるに違いない。
 ピアジェによれば子どもは自分を中心にした視点でしか事象を理解できず,また,推論が知覚的属性に大きく影響される。例えば、自分が目撃したある事象を他の人が見たとは限らないということを理解しない(自己中心性)。チューリップが花というより包括的なカテゴリーに属する、概念間の包摂関係を理解しない。また、細長いコップに入っていた液体を子どもの目の前で幅のひろいコップに移しても水面の高さが低くなることに惑わされて液体の量が減ったと言う、即ち保存概念の欠如。
 やがて、自分以外の視点で推論ができるようになり、概念の包摂関係の理解や保存の概念が生じる。しかし、論理的可能性をシステマティックに検討する仮説演繹的思考や,運動の保存のような非常に抽象的な概念を理解したりすることは困難である。さらに時を経て、具体物の操作から離れ、言語や記号のうえだけの抽象的な論理操作が可能になり、仮説演繹的な思考ができるようになる。とはいえ、表象的思考、抽象的推論操作に基づいた事象の理解などが1歳以前の乳児に存在するケースもあり、一方で、仮説演繹的な思考が苦手で、自己中心的な思考に終始する大人や老人は多くいる。
 「自分を中心にした視点でしか事象を理解できない」、その頂点に結果としての認知症があるように思う。幼児退行と人は良く云うが、言い得て妙である。いかに進んだ認知症であろうとも、脳幹は生きている、認知症は植物状態と縁戚関係にあるのでないだろうか。

 結論である。臭いものに蓋をするというではないか、施設の片隅で死を迎えていただくほか、無責任なわたしに思いつく手立てはない。これではヒトラーのそれと同じではないかと叱られそうだが、在宅介護なんぞした日にはわたし自身が金銭的にも肉体的にも破綻する。ここはひとつ冷酷に・・・ 


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2017年03月09日 01:19に投稿された記事のページです。

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