高橋睦郎さんの講演で質疑応答になったとき、若い人たちがわたしはアララギで、わたしは歴程でと、属する組織名を真っ先にあげていた。睦郎さんはそのような組織に属することなく詩を書いてこられた、にもかかわらずである。
もとより、詩を書くとは個の営みであって、どこそこへ帰属しているからと云ってそれが作家であることの権威付けにこそなれ、証明にはならない。その消息は舞踏であれ、陶芸であれ、なんであっても同じである。
むしろ何々に属していると表明した瞬間に指のあいだからさらさらと零れ落ちてゆく砂状のもののなかにこそ、愛おしむべき個の呻吟が隠されているのでないだろうか。
その個と闘う陶芸家がいる、川口真世(まよ)さんである。写真はですぺら開店のために川口さんがお持ちになった小鉢。わたしが世話になる毎日自動車商会社主の娘さんであること以外、彼女についてはなにひとつ存じ上げない。知識があれば迂闊なことは書かれない、知らないがゆえに、なんだかんだと云えるし、書かれるのである。
例えば、のっけに師匠はどちらのと訊いてしまった。それが立杭であろうが九谷であろうが、初手の一歩に手を貸したまでのはなし。川口さんの焼き物はあくまでも川口さんのものに他ならない。これが迂闊の一歩。
焼き物の景色を構成するさまざまな用語がある。例えば、土が荒いせいかイシハゼが目立つが、珍重されるべき景色を奏でていると云った類いである。しかし、そのような用語が如何ほどのものを意味するのか、焼き物の説明たり得ても作家個人をなにひとつ語ったことにならない。それも迂闊のひとつ。
通常、個人としての陶芸作家は釜の一部を間借りするしか方法がない。従って、窯元の威光が強く、自由な表現活動ができないのである。ところが、川口さんは大蔵町近隣の寺に釜があってそこで焼いていらっしゃるとか。ますますもって自己完結なさっている。権威・権力・組織に背を向けて作陶なさっている個人と久しぶりに出会った。晩年の楽しみがひとつ増えたと云っておこうか。